「高木文平」は、京都電気鉄道を設立し初代社長を務め、京都市内に日本初の市街電気鉄道を走らせました。文平の偉業はこれだけでなく、琵琶湖疎水の工事には当初から関係し、田辺朔郎とともにアメリカに渡って水力発電技術を持ち帰り、日本で初めての水力発電所「蹴上発電所」の建設にも尽力して、発電した電力を電気鉄道の動力源とするなど日本の近代化に大きな礎を残しました。その後も宇治川発電所の建設にも尽力して「電気王」と称されました。
高木文平生家前に立つ頌徳碑 |
「高木文平(たかぎぶんぺい)」は、琵琶湖疎水の建設や京都の蹴上水力発電所の建設に大きな功績がありましたが、これらの事業では土木主任技師であった「田辺朔郎」のみが注目されて、文平はあまり表に出てきていません。文平は疎水建設や発電所建設だけでなく、京都市に日本初となる市街電車の開通についても中心的役割を果たすとともに、最初の電鉄会社の社長に就任するなど、京都のみならず日本の近代化に大きな役割を果たしてきました。この他にも明治維新後の教育や殖産振興など多くの分野で功績がありましたが、近代史のなかであまりにも名前がでていないのは、非常に残念なことです。
高木文平(by Wikipedia 原典「京都商工会議所史」) |
「高木文平」生家跡 |
「高木文平」生家跡の門 |
旧神吉小学校(新校舎建設後は役場として使用) |
顕彰碑 |
写真中央の池が西岡尻貯水池
これらの実績・功績から明治8年(1875年)、時の京都府知事「槇村正直」に招かれて京都府庁の「監察」に就任し、経済の振興と教学の刷新に尽力しました。
そんな中、明治10年(1877年)には、フランスで開催された大博覧会に私費で人を送り、京都の産品を出品しました。
その後、明治13年(1880年)には府の職を辞して京都名産及麦酒会社を設立し、ビールや郷土物産の為に海外進出の途を開きましたがほどなく倒産しました。明治15年(1882年)には、槇村知事の肝いりで京都商工会議所が設立されると初代会長に推され、一躍京都産業界の指導者となりました。
その後、文平は琵琶湖疎水に関わることになります。明治21年(1888年)、上京・下京連合区会議員(現在の京都市会議員)の代表として、土木主任技師の「田辺朔郎(たなべさくろう)」とともに、運河視察のためにアメリカに渡りました。この視察で文平は電力時代の到来を確信し、帰国後は琵琶湖疎水の開墾事業のために当時の「北垣国道」京都府知事を扶けて事業の推進に尽力しました。
琵琶湖疎水琵琶湖側 |
文平はまた、琵琶湖疎水事業に水力発電を加えることに尽力し、この結果明治24年(1891年)に誕生したのが、日本初の水力発電所「蹴上発電所」です。
蹴上発電所第二期建屋(by Wikipedia) |
さらに、文平は蹴上発電所が発電した電力を積極的に活用するため、京都の市街地で電車を走らせることを発案し、そのために明治27年(1894年)「京都電気鉄道会社」を設立し初代社長に就任しました。明治28年(1895年)に開業した当初の路線は市内の一部区域だけの運行でしたが、単線での運行でしたので、離合箇所以外の箇所で鉢合わせして、乗客同士がけんかしてしまうなどのトラブルがあったそうです。また、雑踏や街角での衝突事故をさけるため、電車の前に先走りの少年を走らせて「電車がきまっせ。あぶのおっせ。」と叫ばせて通行人や馬車に通知していたそうです。
当初の京都市街電車(by Wikipedia) |
文平は、アメリカから帰国後もう一つの事業を立ち上げていました。消火器です。硫酸と重曹の反応によって発生する二酸化炭素で消火するという当時としては画期的な「二重瓶消火器」を発明し、明治25年(1892年)に「高木消火器店」を設立しました。それは京都の神社仏閣を火災から守りたいという気持ちからだったと言い、その後は同郷の初田利兵衛が文平から技術・権利の一部を譲り受けて設立したのが消火器メーカー「初田製作所」です。
文平はその後も、明治39年(1906年)京都の宇治川の水を利用した「宇治川水力発電所」で発電する「宇治川電気株式会社(後の関西電力)」を設立し、取締役を務めるなど、電気事業の草分けとして活躍し「電気王」と呼ばれました。しかし残念ながら、文平は宇治川発電所の完成を見ることなく、明治43年(1910年)他界しました。享年67歳でした。
動乱の時代を駆け抜け、日本の近代化の牽引役として活躍した「高木文平」について光をあてることによって、現代の若者に文平のバイタリティと行動力と斬新な発想力を学んでいただきたいなと思うところです。
なお、「高木文平」の弟「高木豊三」は、日本の近代法の基礎を築いた先駆者の一人で、大審院判事や司法次官などを歴任しています。
「高木文平」生家跡
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