2020年8月6日木曜日

京都寺町今出川上ルの「阿弥陀寺」には本能寺の変で散った織田信長父子と森蘭丸等家臣の本廟があります

「阿弥陀寺」の開基「清玉上人」は、幼少の頃に母を亡くし尾張の織田家に育てられました。仏門に入った清玉上人は、やがて近江国坂本で阿弥陀寺を開基しました。その後、清玉上人は「織田信長」の帰依もあって、京都の今出川大宮付近に阿弥陀寺を移転しました。織田家と信長に対し、幼少以来の恩義を感じていた清玉上人は、本能寺の変の一報を聞くやいなや、すぐさま本能寺に駆け付け、信長父子と家臣達の亡骸を隠して持ち帰り、阿弥陀寺の墓所に葬って手厚く弔いをしたということです。その後、豊臣秀吉の京都の都市計画で阿弥陀寺を当地に移転した際にも、信長父子と家臣達の廟を大切に移転して、現在まで手厚く供養しています。

総門前の「織田信長公本廟」の石標

阿弥陀寺(あみだじ)由緒

寺 号 蓮台山(れんだいざん)総見院(そうけんいん)阿弥陀寺(あみだじ) 

宗 旨 浄土宗鎮西義派(ちんぜいぎは)知恩院末寺

御本尊 阿弥陀如来坐像

創 建 天文24年(1555年)

開 基 清玉上人(せいぎょくしょうにん)

移転年 天正13年1585年)

移 転 豊臣秀吉の天正の地割により当地(寺町・現在地)に移転 

別 称 信長公本廟所・寺町阿弥陀寺

所在地 京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町14

阿弥陀寺 総門

「阿弥陀寺(あみだじ)」の開基「清玉上人(せいぎょくしょうにん)」は、尾張の生まれと云われていますが詳細は不詳です。幼いころに母(母親の出自にいては諸説あり)を亡くしましたが、尾張の織田家に養育されました。このことから、織田家には相当な恩義を感じていたということです。後に出家して、天文年間(1532年~1554年)、近江国坂本の地で「阿弥陀寺」を創建しました。

その後、室町時代末期の天文24年(1555年)「織田信長」の帰依もあって、京都の西の京蓮台野芝薬師西町(現在の今出川大宮東)に八町四方(約9km四方)の境内と塔頭を11ヶ寺を構えた寺院を建立し、「阿弥陀寺」を移しました。蓮台野(京都の葬送場の一つ)に近いために、山号を蓮台山としたということです。

当時の第106代「正親町天皇(おおぎまちてんのう)」は、清玉上人に深く帰依し、東大寺大仏殿の勧進職(寄付や寄進の世話人)を命じるとともに、当寺を勅願所としました。

本堂

本堂には、ご本尊の阿弥陀如来像のほか、織田信長と嫡男信忠のリアルな木像が安置されています。本堂内は6月2日のみ拝観可能となっていますが、事前に確認をお願いします。

本堂の「蓮臺山」扁額

織田信長本廟所

「本能寺の変」は、天正10年(1582年)6月2日早朝、京都の本能寺に滞在中の織田信長を重臣の明智光秀が謀反を起こし襲撃した事件です。寝込みを襲われた信長は約1万3千の明智方の軍勢に囲まれ、最早これまでと悟ると寺に火を放って自害しました。

本能寺の変(右は信長、左は森蘭丸 by Wikipedia)

阿弥陀寺の縁起によりますと当時の様子は次のとおりだっと伝えられています。

清玉上人は、本能寺の変の一報を聞くや否やすぐさま僧20名を引き連れて本能寺にかけつけましたが、門壁で戦闘中で近づけませんでした。ところが裏道を案内する者がいて、ようやく裏から生垣を破って寺内に入りましたが、堂宇には既に火がかけられ、信長も切腹したと聞いて落胆しました。

ところが後ろの藪で10名あまりの信長方の武将が落ち葉に火をつけているのを見つけ、訊ねると信長の遺言で亡骸を敵に奪われて首を敵方に渡すことがないようにと指示されたが四方を敵に囲まれて亡骸を運び出すことができないので火葬にしてその後自分たちも後を追って自害するつもりだと言われました。清玉上人は「信長は残念ながら亡くなってしまったが、今こそ信長の恩義に報いる時である。」と信長方の武将達に、火葬は出家の役目であるから信長の亡骸を渡してくれれば火葬して遺骨を寺に持ち帰り、懇ろに弔ってこの先の法要も欠かさないと約束すると言いいました。これを聞いた武将達は涙を流して、「これで表に出て敵を防ぎ心静かに自害できる」と言いその場から立ち去りました。

清玉上人たちは、信長の遺骸を荼毘に付して、信長の遺灰を法衣に詰め、本能寺の僧達が立ち退くのを装って運び出し、阿弥陀寺に持ち帰りました。そして塔頭の僧だけで葬儀をして境内に墓を築いたということです。また二条御所で亡くなった嫡男(次男説もあります)「信忠(のぶただ)」についても遺骨を集めて、信長の墓の傍に信忠の墓を築きました。さらに清玉上人は、光秀に掛け合って本能寺の変で亡くなった全ての人々を阿弥陀寺に葬る許可を得たとされます。その結果、森蘭丸始め織田家家臣百有余名の亡骸を阿弥陀寺に埋葬することができたと伝えられています。

信長父子の墓

信長父子の墓(右が信長、左が信忠、右の一段下は四男信孝)

六男勝長、十男信貞、庶兄信廣、側室の墓

家臣の墓(中央五輪塔は右から森蘭丸・坊丸・力丸三兄弟の墓)

家臣の墓

豊臣秀吉が天下人となった後、阿弥陀寺には法事領300石があてられましたが、清玉上人がこれを度々拒否しました。このことが秀吉の逆鱗に触れ、大徳寺総見院を織田氏の宗廟にしましたので、阿弥陀寺は廃れ無縁寺になったということです。

その後天正15年(1587年)、秀吉の都市計画による寺町通りへの寺院の強制移転により、阿弥陀寺は現在地の鶴山町に移転させられました。この際堂宇とともに、信長の墓所についても同時に当地に移転しています。

江戸時代には塔頭12を有していましたが、延宝3年(1675年)の延宝の大火、天明8年(1788年)の天明の大火によって堂宇は焼失しました。その後再建しています。


清玉上人廟所

墓所内に清玉上人の墓があります。その前面両サイドには歴代の阿弥陀寺住職の墓が並んでいます。

清玉上人の墓(周囲は歴代住職の墓)

墓所への入り口(本堂裏左手奥)

俳人松尾芭蕉の句碑

境内の本堂の左脇に俳人「松尾芭蕉」の句碑が立っています。

「春立つや 新年ふるき 米五升」

芭蕉の句碑

実は芭蕉は阿弥陀寺とは直接の関係はありません。阿弥陀寺境内にある塔頭の「帰白院(きはくいん)」の住職を務めていた江戸時代中期の僧「蝶夢(ちょうむ)」は俳諧にはまり、俳号を「五升庵」と号していました。芭風俳諧の復興を志し、芭蕉の遺作を研究して多くの著作も残しました。そこで芭蕉の句にある五升升と蝶夢の俳号五升庵をかけて、阿弥陀寺に芭蕉の句碑を立てたということです。

塔頭「帰白院」

蝶夢の句碑は、本堂左の松の木の袂に立っています。

「我寺の 鐘とおもはず 夕霞」

蝶夢の句碑(句は反対面にあります)

寺務所・賓客入口・空中回廊

寺務所には、賓客用入口があり、そこから本堂へは空中回廊で渡ります。

寺務所

賓客入口

空中回廊

鐘楼

鐘楼

織田信長の廟所はいろいろな箇所に設けられています。京都の本能寺、京都の大徳寺塔頭総見院、滋賀県安土城址、静岡県西山本門寺等々数あるなかで、阿弥陀寺の本廟所は信長父子や森蘭丸三兄弟他家臣の墓もあり、信ぴょう性が高いような気がします。特に信長父子の墓石は京都の2度の大火で焼け焦げたような色合いにも見え、リアル感があります。本物か偽物かは別にしても、墓の前に立って信長が生きた時代を考えると、動乱の時代に生きた人たちの生きざまが伝わってくるかのような錯覚に襲われてしまいます。

皆様も是非、「阿弥陀寺」の信長公の本廟所にお参りして戦乱の時代の息吹を感じてください。

拝観時間
9時~16時

駐車場
境内に参拝者用駐車場があります。20台程度駐車できます。

アクセス
地下鉄烏丸線 今出川駅下車 徒歩約14分
京阪電鉄京阪本線 出町柳駅下車 徒歩約12分


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