大溝城跡 |
大溝城と陣屋・武家屋敷の配置 |
伝承によれば信長は、城の縄張(設計)は「明智光秀」に命じ、築城の現場施工は信長の甥(弟織田信勝の嫡男)である「織田信澄(おだのぶずみ)」に命じたということです。光秀はその前年の元亀2年(1571年)に近江坂本に同じく水城の「坂本城」を築いており実績とノウハウを持っていました。
築城工事が竣工すると、信長はここを大溝城と名付け、信澄を城主として認可し、信澄に高島の治政を任せました。
信澄は当時の高島郡の開発発展に尽力するとともに、信長の側近として織田軍の遊撃軍団の一つとして勇名を馳せました。
大溝城本丸模型(中央が天守) |
当時近江国には、信長の安土城、秀吉の長浜城、光秀の坂本城、そしてここ高島の大溝城と
琵琶湖に面して築かれた水城がありました。信長はこれらの城を結ぶ湖上ネットワークにより、琵琶湖の制海権を掌握することができました。ここ大溝城は水軍も配備しており、湖上ネットワークでは重要な拠点となっていました。
本丸天守跡の石垣(石段も残っています) |
本丸天守跡の石垣 |
本丸天守跡上の天守台跡 |
本丸天守跡上の天守台跡の石垣 |
大溝城の全貌は明らかではありませんが、現在天守台跡の石垣が乙女ヶ池(内湖)に隣接して残っていることから、内湖を巧みに利用した水城で、琵琶湖の水運を掌握した構造であることが読み取れます。
大溝城の内堀跡 |
天正10年(1582年)6月2日、光秀が京都の本能寺で信長を討ち謀反を起こすと、光秀の四女を妻としている信澄に嫌疑がかかりました。信澄の蜂起を恐れた「織田信孝(信長の三男)」は、重臣の「丹羽長秀」と謀って、6月5日四国攻め遠征途上にあった信澄を大坂城内二の丸千貫櫓に攻め込みましたので、信澄は最早これまでと自害して果てました。このとき信澄は25歳とも28歳であったとも云われています。
秀吉の天下となった後、大溝城は丹羽長秀に与えられましたが、家臣の植田重安が城主となっています。その後は加藤光泰、生駒親正が城主として赴任し、天正15年(1587年)になって「京極高次(きょうごくたかつぐ)」が城主として赴任しました。浅井三姉妹の次女「お初」は、高次の正妻としてこの大溝城で新婚生活を送りました。名門京極家の女あるじとして一族の繁栄と家名の維持に努めた戦国時代には稀な才女でした。高次の死後は仏門に入り「常高院(じょうこういん)」と名乗り、生涯高次の菩提を弔いました。
常高院肖像画 |
その後、大溝城は高次が近江国近江八幡に異動した後は、無城主となっていましたが、江戸時代に入り「一国一城令」によって城の破却を命じられ、慶長8年(1603年)解体され甲賀郡水口岡山城に移されました。
城を中心に形成されていた大溝の城下町は、元和元年(1619年)伊勢国上野から入部した「分部光信(わけべみつのぶ)」に引き継がれ整備され、湖西地域の中核的存在として豊かな歴史と文化を育んできました。
分部氏は、三の丸に「大溝陣屋」を構え、その後11代260年もの長期間続いて明治維新を迎えました。
大溝城の二の丸付近には、「分部光信」を御祭神として祀る「分部神社」が鎮座しています。少しさびれた感じになっているのが残念です。
分部神社 |
分部神社 鳥居と本殿 |
分部氏が整備した街並みは、城下は総門を境として、南を武家屋敷地、北を町人地に区画しました。武家屋敷地は塀と塀で囲まれやや規模の大きい地割りとされたのに対し、町人地は開口が狭く奥行きの深い短冊形の区画割りにしました。町人地には並行する4本の通りの中央に水路が敷かれました。水路にはかつて「カワト」と呼ばれる洗い場が各所に設けられ、生活用水や防火用水に使われました。また大溝の城下町は、上水と下水の分離が計画的行われています。
「総門」は扉は失われているものの、長屋門として現存しています。
大溝陣屋 総門 |
大溝陣屋 総門 |
町人地の水路(カワトが設けられています) |
高島の市街地は、現在も昔の景観を保存して残しており、昔の街並みを新しいショップやカフェで活用するなど、若い人もターゲットにした観光に力を入れています。平日でも若いカップルや少しお年を召した女性のグループなど幅広い観光客が街歩きを楽しんでいます。
歴史を感じる日本基督教団大溝教会 |
カフェや体験教室もある「びれっじ」 (1~8号館まであります) |
大溝城跡や陣屋総門で歴史を感じながら、新しさもある高島の街歩きを楽しまれてはいかがでしょうか。無料の観光駐車場もあります。
アクセス
JR湖西線 高島駅下車 大溝城跡は徒歩約10分、待ち歩きは徒歩約15分
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