金のなで牛・くぐり牛 |
吉祥院天満宮(きっしょういんてんまんぐう)御由緒
名 称
吉祥院天満宮(きっしょういんてんまんぐう)
御祭神
菅原道真公(すがわらのみちざねこう)
創 建
承平4年(934年・道真公が亡くなって後31年目の年)
御神紋
干梅紋
境内社
・吉祥天女社(吉祥院)
御神紋
干梅紋
境内社
・吉祥天女社(吉祥院)
御祭神:吉祥天女(きっしょうてんにょ)
菅原清公(すがわらのきよきみ・道真公の祖父)
菅原是善(すがわらのこれよし・道真公の父)
伝教大師最澄(でんきょうだいしさいちょう・天台宗の宗祖)
観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)
薬師如来(やくしにょらい)
孔子(こうし)
・五社(左から)
白太夫社 御祭神:白太夫神(しらだゆうしん)
松梅社(松梅院・天台宗寺院)
吉野社 御祭神:白太夫神
琴平社 御祭神:琴平大神(ことひらおおかみ)
秋葉山 御祭神:秋葉大神(あきばおおかみ)
・稲荷社 御祭神:正一位春房稲荷大明神(はるふさいなりだいみょうじん)
境外社
・弁財天社 御祭神:弁財天(べんざいてん)
例祭他
梅花祭 (2月25日・管公御命日祭)
春季大祭(4月25日・六斎奉納)
夏季大祭(4月25日・六斎奉納)
夏季大祭(4月25日・六斎奉納)
ご利益
・学業成就・能力開発・受験合格・商売繁盛・心願成就・厄除方除・安産生育・病気平癒
所在地
京都市南区吉祥院政所町3番地
京都市南区吉祥院政所町3番地
吉祥院天満宮参道入口 |
第50代「桓武天皇(かんむてんのう)」は、平城京の治政のなかで台頭してきた奈良仏教各寺の影響力を遠ざけるため、これまで未開の山城国(現代の京都府)への遷都を行いました。延暦3年(784年)初め長岡京への遷都を行い、10年間の治政の後、次は延暦13年(794年)平安京への遷都を行いました。
表参道 鳥居 |
「吉祥院天満宮」の御祭神「菅原道真公」の曽祖父で高名な学者の「菅原古人(すがわらのふるひと)」は、桓武天皇が平安京に遷都した際に、天皇の御供をして長岡京から平安京に入り、積極的に天皇のサポートを行いました。その結果、吉祥院のこの地を天皇より領地として授かり、邸を構えることが出来ました。邸を構えた当時、この地は白井の庄と称し、古人はその中央部に邸を構えて住み、六田家(土師家の郎党で福田・奥田・安田・恩田・寺田・岩田の姓に田の付く六家)を始めとする菅原家一族の人々は、従来からの住人と共に、この地で農業を営みながら良好な関係を築いていきました。
古人は元々の姓を「土師(はじ)」として名乗っており、古代豪族であった土師氏はもともと技術者集団で、古墳時代の古墳造営や葬送儀礼に携わった氏族で天皇一族とは近い存在でした。古人は平城京時代に拠点のあった大和国添下郡菅原村に因んで、姓を「菅原」に変更することを願い出てこれが許可され菅原姓を名乗ることになりました。古人は儒家として高名で、天皇の厚い信頼を得ていました。
拝殿 |
拝殿 |
その後延暦23年(804年)、古人の四男「菅原清公(すがわらのきよきみ)」は文章博士として遣唐使に選抜され、後に天台宗の開祖となる「最澄(さいちょう)」とともに唐に渡りました。清公が唐へ向かう航海の途中、暴風に遭遇し船が転覆しそうになりました。その時同船していた最澄とともに、現れた「吉祥天女(きっしょうてんにょ)」に航海の平安を祈ったところ、すぐに波は静かになり命を救われたのでした。遣唐使の大任を終え帰国した清公は、吉祥天女を篤く信仰することとなり、自ら天女の尊像を刻み、大同3年(808年)邸の庭に一堂を建立して自ら刻んだ「吉祥天女像」を安置して、伝教大使最澄にお願いして開眼供養を行いました。そしてここを「吉祥院(きっしょういん)」と号して、国家鎮護の祈願所、菅原家守護の本尊としました。これが当地の地名「吉祥院」の由来です。
吉祥天女社には、菅原家代々の祈願所として、吉祥天女とともに祖父清公、父是善、伝教大師最澄、観世音菩薩、薬師如来、孔子を一緒にお祀りしています。
吉祥天女社 |
吉祥天女社 扁額 |
そして、承和12年(845年)6月25日、清公の四男「菅原是善(すがわらのこれよし)」の三男として「菅原道真公(すがわらみちざねこう・幼名阿呼・吉祥丸)」が誕生しました。
産湯の井跡
表参道の鳥居の右手に「産湯の井跡」があります。道真公誕生の際の産湯に使われた井戸の跡で、「菅公御誕生之地」の石碑の付近に井筒が残っています。
産湯の井跡(左「菅公御誕生之地」の石碑) |
「菅公御誕生之地」の石碑(このあたりに井筒) |
菅公胞衣塚
境内の本殿正面のあたりに、「菅公胞衣(えな)塚」があります。道真公誕生の際に、胞衣(へその緒)を埋めたところと云われています。現在では参拝者の初参りの際には、本殿参拝の後ここに参り、赤ちゃんの鼻をつまんで泣かせ発声の始めとします。天満宮では、この塚の小石を「お喰初め石」として授与しています。
菅公胞衣塚 |
道真公は、幼少の頃から才智が高く、貞観4年(862年)18歳で文章生(もんじょうしょう・官僚育成機関)に合格するまではこの吉祥院に住んでいました。
硯之水
由緒ある硯の水の復活を願った篤志家の奉納で、昭和61年(1986年)に境内に井戸を掘り、新たに硯型の碑を立てました。
硯の水 |
文章生に合格してもしばらくはこの吉祥院から通学していましたが、御所仕えということと父是善の勧めもあって、大内裏近くの宣風坊(平安京の通りの呼び名・五条西洞院付近)に転居して、文章得業生(特待生)と方略試(官吏登用試験)を目指して寸暇を惜しんで勉学に励みました。その結果、道真公は祖父清公、父是善に続いて33歳の若さで文章博士(大学寮の教官)になりました。
鑑の井
表参道の鳥居の手前の「弁財天社」の右脇に「鑑の井」があります。これは道真公が毎日、役所への出勤前に姿を写して身だしなみをチェックしたと云われている井戸です。井戸の横には、江戸時代の高名な書家「松下烏石(うせき)」が記した鑑の井に関する石碑が立っています。
鑑の井(左が烏石の石碑) |
道真公は、その後も政治に学問に実力を発揮して、次々と昇進を重ね、第59代「宇多天皇」の特別の信任もあって、学者としては初めての右大臣(太政官の長官、太政大臣・左大臣に次ぐナンバー3)にまで昇り詰めました。この時左大臣は「藤原時平(ふじわらのときひら)」でした。「宇多天皇」は第60代「醍醐天皇(だいごてんのう)」に譲位して、上皇となってからも道真公を引き続き重用するよう醍醐天皇に強く求め、時平と道真にのみ官奏執奏(天皇への決裁書の事前閲覧)の特権を許しました。
菅原道真公(by Wikipedia) |
道真公の目を見張るスピード出世に周りの有力者達の不満はつのります。そして不満がピークに達した時、時平の政略(道真公が謀反を図ったと醍醐天皇に告げ口)により、延喜元年(901年)道真公は太宰府へ太宰権師(大宰府長官は名目上、実際は権限なしの窓際族)として左遷を命じられました。
「東風(こち)吹かば 匂い起こせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
この句は太宰府に旅立つ時に詠んだ句です。
大宰府に左遷されてからの道長公は、悲運をたどり、しきりに京のことを想いながら、望郷の詩を幾編となく綴り、延喜3年(903年)2月25日、ついに冤罪を晴らすことなく病苦のうちに誠心の生涯を閉じました。享年59歳でした。
道長公逝去後31年目にあたる承平4年(934年)、時の第61代「朱雀天皇(すざくてんのう)」の勅命により、菅原家ゆかりの地で道真公生誕の地でもある当地に「天満宮」が創建されました。
拝殿より望む本殿 |
拝殿の「天満宮」の扁額 |
本殿 |
道真公が天満宮として祀られてからは、全国各地の寄進により社殿は豪壮になっていきました。平安時代末期の第74代「鳥羽天皇(とばてんのう)」は菅公200年忌の祭典を特別盛大に行いました。その後、歴代天皇も年々盛大に勅祭を行うようになりました。
ところが、安土桃山時代の天正18年(1590年)、「豊臣秀吉」により神領・八講料(会費)など悉く没収されました。これはかつて秀吉の家臣と天満宮の神領民との間に小競り合いがあったことを、秀吉の家臣が秀吉に悪く告げ口をしたために、秀吉の勘気に触れたことが原因と云われています。
その後は勅祭も廃止され、江戸時代にはしかたなく天満宮の規模を縮小せざるを得なくなり
、神社の維持運営にも窮することとなりました。
近代に入り、明治35年(1902年)の菅公千年祭以来、崇敬者の篤い支援で社殿の復興が進み、今日を迎えているところとなっています。
天満宮と臥牛
天満宮に臥牛は、付き物・定番となっており、自身の傷や病気の箇所を牛の身体でさすると回復すると云い伝えられています。
ところが、天満宮と臥牛の取り合わせの由来については、諸説あるようです。道長公が逝去した延喜3年2月25日が丑の日だったという説、道長公の遺骸を乗せた牛車を引く牛が道長公との別れを惜しんで、道に臥せたという説などさまざまありますが、これだというものはないようです。
牛の狛犬(手前)と狛犬(奥) |
拝殿前の金ぴかの臥牛は、最近置かれたもののようです。いかにもご利益が得られそうな牛ですので、撫でるなり、さするなり,くぐるなりしてご利益を得てください。
金ぴかの臥牛 |
境内社
五 社
左から白太夫社・松梅社・吉野社・琴平社・秋葉山 |
稲荷社
稲荷社 |
境外社
弁財天社
弁財天社は、表参道鳥居の手前の角にあります。
弁財天社鳥居 |
弁財天社 |
その他の社殿など
舞殿
舞殿 |
東側勅使参向の際の鳥居
東側鳥居 |
社務所
社務所は、南側の道路を挟んだ向かい側にあります。門構えのある立派な社務所です。
社務所 |
日本最古に創建されたと云われる天満宮は、他にも南丹市の「生身天満宮」や京都市下京区の「文子天満宮」があり、それぞれ諸説があります。ここ「吉祥院天満宮」は、道真公生誕・生育の地ということも合わせ、日本で最古に創建された由緒ある天満宮ということで、お参りしてもいいのではないでしょうか。
アクセス
JR京都線 西大路駅下車 西大路通りを南へ向かって徒歩約15分
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