2020年7月20日月曜日

「本多神社」の祭神は膳所藩主の本多家四柱、境内の稲荷山古墳の石室には子授地蔵が安置されています

滋賀県大津市御殿浜の「本多神社」には、膳所藩で最も長く藩主を勤めた本多家の累代四柱が御祭神として祀られています。本殿は旧膳所城の瓦ヶ浜御殿の跡に鎮座し、境内は紫陽花の花が咲き乱れていました。また境内には2基の円形古墳が現存し、その内の一基稲荷山古墳の石室には、鎌倉時代に造られた「子授地蔵」が安置され、山上には「広鶴稲荷」が鎮座しています。境内近くには、幕末の動乱に散った尊王攘夷派の膳所藩十一烈士を祀る「丹保之宮」があります。

本多神社境内古墳の紫陽花の花

本多神社(ほんだじんじゃ)御由緒

名 称 
本多神社(ほんだじんじゃ)

御祭神 
本多家中興の士 四柱
・本多忠俊(ほんだただとし・戦国時代三河国の武将) 
・本多忠次(ほんだたたつぐ・戦国時代から江戸時代にかけての武将で徳川家の家臣)
・本多康俊(ほんだやすとし・徳川家重臣で膳所藩初代藩主)
・本多俊次(ほんだとしつぐ・康俊の長男で膳所藩主)

創 建
明治16年(1883年)4月

御神紋
立葵

境内社
・広鶴稲荷  
・長八稲荷  
・三社 左から
 松岡稲荷
 八玉弁財天
 吉鶴稲荷
 
例祭他
例大祭(4月29日)

ご利益(稲荷神)
・五穀豊穣・豊作祈願・商売繁盛・芸妓上達・縁結び・家内安全・諸願成就

所在地
滋賀県大津市御殿浜20-50

本多神社鳥居

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで勝利し天下を制圧した「徳川家康」は、翌慶長6年(1601年)京の背後の守りと、未だ「豊臣秀頼」が居城し火種がくすぶる「大坂城」への備えの城として、また東海道・中山道・北国街道が通過し、かつ琵琶湖の湖上交通が東海道と合流する要衝の地のこの地「膳所崎」に城を築くことを命じました。

それまで大津には「大津城」が築かれていましたが、大津城は背後の山「長等山」からの砲撃射程に入ることから、「家康」はこれをよしとせず、大津城を廃してより要衝の地の守りに適した膳所崎の地に「膳所城」を築かせたのです。膳所城の用材は、解体された大津城の用材を再利用して築城され、城門等は膳所城に多く移築されました。

膳所城の城主には、近江国では彦根藩に次いで領地の広い「膳所藩」が与えられ、交通の要衝の護りという大役を命じられるとともに、膳所藩の経営という大きな権益も与えられました。膳所藩は、滋賀郡のうち21村、栗太郡のうち76村、甲賀郡のうち1村、浅井郡のうち7村、伊香郡のうち5村、高島郡のうち18村、河内の国錦部郡のうち13村という広大な領地を保有していました。

「膳所城」の初代城主には、廃された大津城の城主であった「戸田一西(とだかずあき)」が3万石の俸禄で就任し、城下町の整備に努めました。元和3年(1617年)一西の子の戸田氏鉄が摂津尼崎藩に転封された後、徳川家の譜代であった「本多康俊(ほんだやすとし)」が3万石で栄転してきました。その後、康俊の子「本多俊次(ほんだとしつぐ)」は藩主を継いだものの、しばらくして5千石の加増で三河西尾藩に栄転していきました。後任には菅沼氏・石川氏が次々とサラリーマン藩主として転入してきましたが、慶安4年(1651年)、ついに本多俊次が再び伊勢亀山藩より俸禄7万石で入封(栄転)してきました。

この後、膳所藩は「本多氏13代(220年間)」は代々明治維新まで、徳川幕府に忠勤に励みました。

「本多神社」は、明治維新後の明治16年(1883年)4月、膳所藩の旧家臣や封内(領内)の有志が集い、本多家の遺徳を偲んで創祀したものです。境内は膳所藩主の別邸として
江戸時代初期に造営された瓦ヶ浜御殿址にあたっており、一画にわずかに庭と池が残されています。

本殿拝所

本殿

本多神社の本殿は、旧膳所城の瓦ヶ浜御殿の跡に造営されました。

境内の「本多公浜御殿址」の石標


稲荷山古墳と子授観音

稲荷山古墳

境内には、4世紀ころのものと云われる円形古墳が2基現存しています。内1基は「稲荷山古墳」と呼ばれ、稲荷社が階段状に鎮座しています。山頂には江戸時代前期の貞享年間(1684年~1688年)に、大津市田上羽栗町から遷祀された「広鶴稲荷」があります。

稲荷山古墳 朱の鳥居

稲荷山古墳 中腹

稲荷山古墳中腹の三社
左から松岡稲荷・八玉弁財天・吉鶴稲荷

稲荷山古墳中腹の長八稲荷

稲荷山古墳山頂の広鶴稲荷

子授観音

稲荷山古墳の基部の稲荷社の鳥居の反対側の石室に「子授地蔵」が安置されています。子授地蔵は古墳の石棺を立てた厨子のなかに、鎌倉時代に造られたとされる石地蔵が祀られており、子授けを切望する夫婦の信仰を集めています。

稲荷山古墳石室の子授地蔵

稲荷山古墳石室の子授地蔵


円形古墳の紫陽花

境内の円形古墳の一基の中央部には、石室や石棺の一部であったであろう石の構造物が露出しています。また古墳の周囲一面に紫陽花が植えられており、季節には鮮やかな花を咲かせ、参詣者を楽しませてくれます。

円形古墳の石の構造物と「本多神社古墳」の石標

円形古墳の紫陽花

円形古墳の紫陽花

円形古墳の紫陽花

説円形古墳の紫陽

膳所藩十一烈士を祀る「丹保之宮」

膳所藩は代々徳川幕府に忠勤に励みましたが、幕末になって尊王攘夷派が台頭し、慶応元年(1865年)には膳所藩の「尊王攘夷派11人(膳所藩十一烈士)」らが、第14代将軍「徳川家茂(とくがわいえもち)」暗殺計画の嫌疑で逮捕・投獄されました。彼らは全員切腹または斬首されました。この事件は後に「膳所城事件」と呼ばれました。(「家茂」は長州征伐の指揮を執るため京に入る予定で、膳所城に一泊する予定でした。)

「丹保之宮(におのみや)」は、本多神社の琵琶湖岸側の鳥居をくぐってすぐの右手に鎮座しています。ここには、膳所藩の「尊王攘夷派11人(膳所藩十一烈士)」らが祀られており、戦時中には「膳所護国神社」と改号されていたそうです。

丹保宮案内

丹保宮

丹保宮


黒田麹盧顕彰記念碑

「黒田麹盧(くろだきくろ)」は、膳所藩出身の幕末期から明治時代前期の洋学者で、「ロビンソン・クルーソー」を日本で初めて翻訳したことで知られています。

黒田麹盧は、江戸時代末期の文政3年(1827年)膳所藩の儒学者「黒田簗洲」の長男として生まれ、緒方洪庵の適塾に学び、また伊東玄朴に蘭学を学びました。また江戸滞在中の嘉永3年(1850年)頃、イギリスの作家D・デイフォーの「ロビンソン・クルーソー」の蘭語本を和訳し「漂流記事」として描きました。漂流記事は新島譲はじめ当時の青年たちに多大の夢を与えたと云われています。その後文久2年(1852年)には、若くして幕命により江戸の蕃書調所(ばんしょしらべしょ・東京大学の前身)の教授となるなど、将来を嘱望されていました。

麹盧はオランダ語・英語・フランス語・ドイツ語、更には梵語にも精通し、天文学にも造詣が深かったと伝えられています。

将来を嘱望され順風満帆な麹盧でしたが、幕末の膳所事件によって帰藩せざるを得なくなり、藩校の「遵義堂」で藩士に対し、洋学と漢学の講義を行いました。

麹盧は、鉛筆・ペン・インク・葡萄酒・写真機・時計など西洋の文物を最初に紹介した人物としても知られており、福沢諭吉をもって「天下に恐るべきはただ一の黒田あるのみ」と言わしめました。膳所藩に帰藩せずに江戸で活躍しておれば、大学者として名を挙げたことでしょう。

本多神社境内の「黒田麹盧顕彰記念碑」は、麹盧の偉業を讃えるため、昭和62年(1987年)に有志の手で立てられたものです。

黒田麹盧顕彰記念碑

膳所藩と本多家の歴史だけでなく、円形古墳や稲荷山古墳、子授地蔵、紫陽花などいろいろと楽しめる本多神社へ是非お参りください。

アクセス
JR琵琶湖線 石山駅下車 徒歩21分
京阪電車石坂線 瓦ヶ浜駅下車 徒歩4分



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