名神高速道路を大津ICで降りて琵琶湖に向かって走ると、突き当たったところに「明智左馬之助湖水渡碑」と刻まれた石標が立っています。本能寺の変で「織田信長」を討った「明智光秀」は、直後の「山崎の合戦」で「豊臣秀吉」に敗れ、坂本城への敗走中に命を落としました。この知らせを安土城で聞いた「光秀」の重臣「明智左馬之助(秀満)」は、坂本城を目指し出陣しましたが、大津のこの地に来て「秀吉」の軍勢に行く手を阻まれました。「左馬之助」は大胆にも馬に騎乗したまま琵琶湖の乗り入れ、琵琶湖を渡って坂本城に向かいました。この地は「左馬之助」の湖水渡りの伝説の地です。
明智左馬之助湖水渡碑 |
NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」で、「明智左馬之助(秀満)」を俳優の間宮祥太郎が演じています。「麒麟がくる」では、明智左馬之助(秀満)は明智光秀の叔父明智光安の嫡男、つまり光秀の従兄弟として描いています。
「明智左馬之助(あけちさまのすけ・秀満)」について、少し解説していきます。左馬之助は光秀と同様に前半生については詳しいことは分かっておらず、「明智」姓を名乗ったのは、光秀の娘と結婚してから後のことで、もとは「三宅弥平次(みやけやへいじ)」という名だったという説もあります。
この弥平次は、光秀の従兄弟の明智光春(みつはる)と同一人物とされることもあり、さまざまな説が入り乱れているため、秀満の出自や光秀との関係も多くの謎が残されています。
太平記英雄伝「明智左馬之助光春」 資料画像(by Wikipedia) |
大河ドラマ「麒麟がくる」では、光秀の父「明智光綱(みちつな)」の弟「明智光安(みちやす)」の嫡男として描かれています。弘治2年(1556年)、光安は主君斎藤道三とその嫡男斎藤義龍の戦の際に義龍と対立し、兄光綱から引き継いだ「明智城」に籠城しますが、城は落城し光安は自害します。光秀は隙をついて、一族郎党を率いて、秀満とともに越前朝倉氏のもとに逃れます「麒麟がくる」では、この頃から光秀と秀満の深い関係が築かれていく様子が描かれています。
秀満は天正6年(1578年)以降に光秀の長女を妻に迎えますが、この時期を境にして後半生からは秀満の足跡をたどることができるようになります。光秀の長女は「織田信長」の家臣荒木村重の嫡男村次に嫁いでいましたが、村重が信長に謀反を起こしたため離縁して明智家に帰りました。秀満は光秀の長女を妻に迎え入れて以降明智姓を名乗りますが、文書に現われるのは天正10年(1582年)のことです。
光秀の長女と結婚したのちの秀満は、坂本城築城に係わるなど(秀満が坂本城築城に際し部下に細かな指示をしていた文書が発見されています。)、光秀の領国経営になくてはならない重臣となりました。
大津市坂本の坂本城址公園に立つ 「明智光秀像」 |
光秀が丹波平定時に築いた福知山城の管理人役に秀満を指名するなどは、山陰から京への交通の要衝の地の福知山城を任せたということで、光秀の秀満に対する信頼の深さが現れていると言えます。
天正10年(1582年)、光秀は「本能寺の変」を起こします。このとき光秀が謀反の意思を伝えた5人の重臣の筆頭が秀満でした。光秀の決意を聞いた秀満は「もはや思いとどまることはありません。」と激を飛ばしたと伝えられています。
本能寺の変で信長を討ち取った光秀ですが、直後に「中国大返し」で駆け付けた秀吉の軍勢との「山崎の戦い」で敗れてしまいました。そして坂本城へ逃げかえる途中、京都山科の竹藪の中で落ち武者狩りに逢い、最後を遂げたのでした。
本能寺の変で重要な役割を果たした秀満は、その後光秀から軍勢を預けられ、近江安土の「安土城」の平定に向かいました。これは光秀が天下を引き継ぐための戦略でした。
ところが、秀満が安土城に入ってまもなく、光秀が敗死したとの報が入ったため、秀満は急ぎ安土城を捨てて坂本城へ向かいました。(・・・なおこの後安土城は火災で焼失しましたが、これは秀満のしわざではなく、信長の息子「織田信雄(おだのぶかつ)」が火を放ったという説が有力です。)
光秀の急を聞き、坂本城に向かう秀満一行でしたが、大津の打出浜のこの地に差し掛かったところ、秀吉の家臣堀秀政(ほりひでまさ)に遭遇しました。
味方の兵が次々と討たれ、窮地に立たされた秀満は、大胆にも馬に騎乗したままザンブと琵琶湖に乗り入れたと云われています。
「明智左馬之助湖水渡」の図 資料画像(by Wikipedia) |
敵将堀秀政は、「今に沈むであろう。」と眺めていたそうですが、秀満は何とか約4km先の対岸の唐崎(柳が崎説もあります)に上陸しました。唐崎に上陸したのであれば、唐崎神社の境内あたりでしょうか。(下の写真の山影と山影が交差するあたりの湖岸が唐崎です。)
大津市打出浜の明智左馬之助が湖水に乗り入れた地 背後は琵琶湖文化館(休館中) |
大津市唐崎の唐崎神社境内の松 |
唐崎に上陸した後、秀満は何とか無事に坂本城に到着しましたが、やがて城は秀政の軍勢に包囲され万策尽きてしまいました。「もはやこれまで」と意を決した秀満は、城に残されていた光秀の子らを刺し殺し、城に火を放って自らも命を絶ちました。秀満は自害に先立って、主君光秀が集めた茶器や刀剣などの名品が城とともに滅びるのを防ぐため、目録を添えて秀政に引き渡したと云われています。
大河ドラマ「麒麟がくる」は新型コロナウィルスの影響で一旦中断しましたが、後半ドラマ再開の後、光秀と秀満の生きざまと両者の関わりを、ドラマの中でどう描いてくれるのか非常に楽しみです。できれば「明智左馬之助湖水渡」のシーンも見たいものです。
琵琶湖岸の「明智左馬之助湖水渡碑」の立つ通りは、「なぎさ通り」と呼ばれています。ひっそりと立つ碑に足を止める人は少ないですが、戦乱の中、一人の武将が琵琶湖上を命がけで渡った景色に思いを馳せるのもいいのではないでしょうか。
アクセス
JR琵琶湖線 大津駅下車 琵琶湖岸に向かって徒歩約15分
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