2020年6月8日月曜日

京都山科の西野山中臣町の「中臣遺跡」「中臣神社」「宮道朝臣列子墓(宮道古墳)」

京都市の東側に位置する山科は、三方を山に囲まれた盆地です。盆地の中央には東側に山科川、西側には旧安祥寺川が流れており、小野のあたりで合流する様は、京都の鴨川と桂川が流れる様と似ており、地形全体も京都盆地のミニチュアかのようです。この山科地区は旧石器時代から縄文・弥生時代、奈良・平安時代、そして現代に至るまで、多くの人々が住んで文化の足跡を残してきました。

中臣神社

中臣遺跡

山科盆地の南部、栗栖野丘陵を取り巻くこの一帯に広がる「中臣遺跡(なかとみいせき)」は、旧石器時代(約2万5千年前)から縄文・弥生・古墳時代、平安時代・室町時代にかけての大規模な複合遺跡です。

昭和44年(1969年)に、地元の洛東高校の生徒がこの公園で弥生時代の土器の破片を発見して以来、一帯で発掘調査が続けられました。しかし、山科地区は戦後人口流入が激しく、これに伴い急激で無計画な住宅開発が進んでおり、昭和44年当時はこの地域は既に住宅地として開発が進んでいたため、発掘調査もままならず、現在まで80回を超える発掘調査が進められていますが、未だ全貌は明らかにはなっていません。

洛東高校生が土器の破片を発見した中臣公園(遺跡)

「中臣遺跡」の遺構・遺物は、旧石器時代後期の「ナイフ型石器」をはじめ縄文時代後期の穴を掘っただけの土壙墓(どこうぼ)、弥生時代の方形周溝墓、弥生時代中期から古墳時代後期に及ぶ竪穴式住居、掘立柱建物跡、平安時代の井戸跡など、極めて長期間にわたるもので、縄文時代から平安時代まで断続的に続く生活跡でした。

古墳群「中臣十三塚古墳群」は、新十条通建設に伴う発掘調査で、古墳時代後期の2基の古墳が発見され、半壊の1基からは横穴式石室、土器、鉄製馬具などが出土しました。全壊の1基は周溝だけが見つかりました。その他「折上稲荷神社」の稲荷山古墳の円墳、宮道(列子)古墳の円墳、坂上田村麻呂墓の円墳、民家の庭の築山の4基が現存しています。

折上稲荷神社の稲荷山古墳

遺跡の範囲は、山科区東野、栗栖野、西野山、勧修寺地区を含む、南北1.1km、東西0.8kmで約60haに及びます。

最初に土器が発見された「中臣町」の地名にちなんで「中臣遺跡」と命名され、この「中臣」という地名は、飛鳥時代に勢力のあった豪族「中臣氏」との関係を示すものと考えられますが、直接の関係を示すものは見つかっていません。

出土した一番古い遺物は、約2万年前のものと推定される旧石器時代後期の「ナイフ型石器」ですが、破片・剥片を含め多数見つかっていることから、「ナイフ型石器」は当地で製造されたということを示しています。

第二市営住宅地から見つかった古墳は、主に方墳で5世紀中頃から6世紀初頭のものが9基ありました。墳丘と埋葬部は失われ、周溝が残されていました。周溝の一画に陶質土器で硬質の「須恵器」を納めた遺構があり、葬儀・祭祀に関わったと見られています。地面に穴を掘っただけの土壙墓も8基あり、その一つには朝鮮半島の百済製と見られる甕が出土しました。


中臣神社(二之宮)

山科盆地は、飛鳥時代に「大化の改新」で活躍した「中臣鎌足(なかとみのかまたり・後に藤原鎌足)」で知られる中臣氏(後の藤原氏)の本拠地として、古くから開発され、近江大津京や平安京の隣接地としても歴史的に大きな影響を与えました。

創建は、第60代「醍醐天皇」が山科郷へ行幸の際、「倉稲魂神(うかのみたまのかみ)」が現れ、天皇と誓約があったとされ、延喜3年(903年)の春に、勅命によって御分霊が勧請され、後に「中臣氏」の祖神である「天児屋根命(あめのこやねのみこと)」を合祀しました。

「延喜三年発亥、醍醐天皇行幸の御時、倉稲魂神、影向よわく、御誓約のことありし故に、御社造営ありけり」と云われています。

「中臣神社」は、「中臣宮」「山科二之宮」とも呼ばれ(一之宮は山科神社とも岩屋神社とも云われています)、「山科神社」の境外末社で「御旅所」ともなっています。

中臣神社(二之宮)

御社前に、「倉稲魂神」の御神詠の歌碑がたっています。

「あとたれて 光やはらく 西の山 人のねがひを みつのともし火」

倉稲魂神の御神詠の歌碑


宮道朝臣列子墓(宮道古墳) 

「中臣遺跡」「中臣神社」のすぐ近くの住宅街の中に、こんもりと盛り上がった円形の小山があります。
宮道朝臣列子墓(宮道古墳)」です。宮道朝臣列子墓(宮道古墳)」は、「中臣十三塚古墳群」の中の一つで現存する4基のうちの一つです。

宮道朝臣列子墓(宮道古墳)

この墓に眠る「宮道朝臣列子(みやじのあそんれっし・朝臣は階位名)」は、平安時代中期の女性貴族です。内大臣「藤原高藤(ふじわらのたかふじ)」の正室で、後に第59代「宇多天皇」の女御となって、第60代「醍醐天皇」の生母ともなった「藤原胤子(ふじわらのいんし)」の母となる人です。父は後に従四位にまで昇り詰めた、平安時代の貴族「宮道弥益(みやじのいやます)」です。

山科区勧修寺には、主祭神として「日本武尊」「雅武王」を祀り、配神として「宮道弥益」「宮道列子」「藤原高藤」「藤原定方」「藤原胤子」を祀る「宮道神社」があります。

「列子」の父「弥益」は、説話ではもともと「山城国宇治郡大領」として記されていますが、実際は山科の中下級貴族であったようで、「列子」も田舎官僚の娘でしかありませんでした。では何故「列子」も「弥益」も、天皇家に近い高級貴族にまで昇り詰めることができたのでしょう。

その答えは、「今昔物語集」巻二十二「高藤内大臣語 第七」にありました。

藤原北家の基礎を築いた藤原冬嗣の孫に内大臣「藤原高藤」という人がいます。鷹狩が趣味であった「高藤」は15~16歳の頃、南山科で鷹狩をしたのですが、急に雷雨にあい、馬の口取をしている舎人とともに、通りがかった郡の大領である「宮道弥益」の屋敷で雨宿りしました。その後、勧められるままに「弥益」の屋敷に一夜を過ごした「高藤」は、この夜に見初めた「弥益」の娘「列子」と一夜の契りを結びました。翌日の朝、京に戻ろうとした「高藤」は、自身の佩刀を「列子」に預けて結婚の約束をし、「身の廻りに他の男を寄せ付けてはいけない」と言い残して屋敷を去りました。

鷹狩から帰らない息子を心配していた「高藤」の父「藤原良門」は激怒し、今後「高藤」が鷹狩に行くことを禁じました。さらに馬の口取をしていた舎人も田舎に帰ってしまったため、「高藤」は「列子」と音信不通になってしまいました。

宮道朝臣列子墓(宮道古墳)

それから6年後、京に帰ってきた舎人の案内で「高藤」は「弥益」の屋敷を訪ね、ようやく「列子」と再会しましたが、その時「列子」の傍には「高藤」に瓜二つの女の子がいました。その女の子は「高藤」と一夜の契りを結んだ時に宿した子でした。

「高藤」の約束を信じ、娘を育てながら待っていた「列子」に、「高藤」は大変心を打たれ、身分の差を超えて「列子」を妻として迎えたのでした。

二人の間に生まれた女の子は「胤子」と名付けられ、「胤子」はやがて第59代「宇多天皇」の女御となりました。「高藤」のもとに嫁いでから後には、後の大納言「藤原定国(ふじわらのさだくに)」、右大臣「藤原定方(ふじわらのさだかた)」も生まれています。

第59代「宇多天皇」の女御となった「胤子」は、後の第60代「醍醐天皇」を生みます。「醍醐天皇」即位後「列子」は、天皇の外祖母として、従三位に叙され、死後には正一位が追贈されました。「列子」の墓は「後小野墓」と称されました。

宮道朝臣列子墓(宮道古墳)

「弥益」の屋敷は、寺に改められて「勧修寺(かしゅうじ)」となりました。

「勧修寺」周辺は、「醍醐天皇」の即位によって出世した「高藤」「定方」に始まる勧修寺流(藤原北家勧修寺流)の本拠地でありましたので、「醍醐天皇」や「藤原家」の史跡が一帯に残っています。

宮道朝臣列子墓(宮道古墳)五輪塔

身分格差のある「列子」と「高藤」の二人が結ばれたというラブストーリーは、「紫式部」の描いた「源氏物語」の「光源氏」と「明石の君」による身分違いの恋の話のモデルになったと云われています。なお、「紫式部」は「列子」と「高藤」の子孫にあたります。


アクセス
京都市営地下鉄東西線 椥辻駅下車 西へ向かって徒歩15分


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