届いた「長刀鉾の粽」 |
「祇園祭」は、7月1日から31日までの31日間続く長い期間の祭です。京都の人は祇園祭のBGM「コンコンチキチ」の調べを聞くと「夏が来たなあ」と思います。そして京都の人は祇園祭に合わせて、季節の料理「鱧(はも)」を食べます。
2019年の祇園祭の後祭の宵山の様子 |
「祇園祭」の起源は古く、平安時代に遡ります。当時流行った疫病や災害を鎮めるために、二条城の南にある「神泉苑(しんせんえん)」で疫神や使者の怨霊を鎮める「御霊会(ごりょうえ)」を開いたことに始まります。今では豪華絢爛に装飾された「山鉾」ですが、メインの願い事は「疫病退散」「厄除け祈願」です。
祇園祭の「粽(ちまは)」は、食べ物ではありません。笹の葉で作られた厄病・災難除けのお守りです。毎年祇園祭のときにだけ各山鉾やお会所や八坂神社で販売され、京都の多くの家庭ではこれを買って、一年間家の玄関先に飾ります。そして、毎年これを買い求めて、昨年の「粽」と交換します。古い「粽」は、八坂神社に納めるか、家の近くの鎮守の神社に納めます。
我が家の玄関先に飾った「長刀鉾の粽」 |
一年間飾っていた「浄妙山の粽」 |
祇園祭の「粽(ちまき)」は、八坂神社の御祭神の「牛頭天王(ごずてんのう)」に由来します。その昔「蘇民将来(そみんしょうらい)」という男の家に、旅人に身をやつした「牛頭天王」が訪ね、一夜の宿を求めました。貧しかった「蘇民」でしたが、それでも手厚くもてなしましたので、「牛頭天王」はその心遣いに痛く感謝して、そのお礼に「今後あなたの子孫は末代まで私が護ってあげます。目印として腰に「茅(かや・ち)の輪」を付けておくように。」と言い残して去って行きました。そのお陰で後に疫病が流行ったときも、「蘇民」の一族は生き残って繁栄したということです。・・・・・・・
このときに「護符」になった茅の輪は、「茅(ち・かや)」を束ねて「巻」いたものでした。そこで「茅巻(ちまき)」と呼ばれるようになって、それと同じ発音の「粽(ちまき・食べるちまき)」と音を担いで、現在のような束状の「粽」が厄除けのお守りとして作られるようになったということです。
「粽」には、「蘇民将来子孫也」という護符が付いています。これには「私は蘇民の子孫ですから病気や災いから護ってください。」という意味があります。
令和2年度(2020年)の粽の授与
「祇園祭山鉾連合会」のホームページによりますと、令和2年度(2020年)の祇園祭各山鉾の「粽」の授与について、現在(6月30日時点)決定しているものは、「長刀鉾」と「白楽天山」の二つの山鉾です。
長刀鉾
「長刀鉾」の「粽」は次の二つの方法で申し込みことができます。
・Webサイトでの申し込み
・「長刀鉾保存会」事務所に訪問のうえ申込書に手書き申し込み
いずれの場合も、授与は郵送による授与となります。
一束1000円 送料は別途必要
白楽天山
オンラインショップのみでの販売です。
一束1000円 送料は別途必要
詳しいことは https://hakurakutenyama.jp/
我が家では、「長刀鉾の粽」を授与いただきました。(3軒で3束を共同購入)
「長刀鉾保存会」から大判封筒で送られてきました。
袋の中身は、「粽」と」「長刀鉾の巻袴」が入っています。
「祇園祭」の歴史
京都はもともと内陸の湿地であったために高温多湿の地でしたが、そこへ都を遷し平安京を建都したことに伴い、急速に人口が集中したため下水路など衛生面で十分でなかったことから、疫病が流行し、貞観5年(863年)神泉苑で疫神や死者の怨霊などを鎮めるための祭「御霊会(ごりょうえ)」を行いました。
その後も疫病が続き、更に貞観6年(864年)には富士山の大噴火や貞観11年(869年)には陸奥で貞観地震が起こり津波で多数の犠牲者が出るなど全国的に厄介が発生し、社会不安が深刻化したため、全国の国の数を表す66本の矛を立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、神輿3基を送って薬師如来を本地とする牛頭天王を祀り御霊会を執り行いました。この貞観11年(869年)の御霊会が祇園祭の起源とされています。
貞観18年(876年)には牛頭天王が京都に遷座して、現在の八坂神社の地に落ち着きました。そこに祇園社として祀られ、感神院と号して比叡山延暦寺に属し、祇園社は延暦寺の末寺とされ、洛中支配の拠点となりました。
八坂神社(2019年4月) |
祇園祭りの山鉾巡行の形態は鎌倉時代末期頃からと云われており、鉾を取り巻く「鉾衆」のまわりで舞曲を演じたということです。更に室町時代になって、自治組織としての町ごとに趣向を凝らした山鉾を作って巡行させるようになりました。
その後、山鉾の数は60基(前祭32基、後祭28基)で巡行するという現在の原形が出来てはていたが、応仁元年(1467年)の応仁の乱で33年間中断しました。
江戸時代に入り京都の三大大火によって祇園祭も大きな被害を受けましたが、その後化政文化の波に乗り山鉾の大型化・華美化が進みました。
その後時代は進み、明治維新以後巡行コースの度重なる変更や、第二次大戦による中断があったもののそれぞれの山鉾は順次復興していきました。
昭和41年(1966年)前祭・後祭を統合して合同巡行にした時期を経て、平成26年(2014年)には後祭が再開されました。
祇園祭は文化財となる華麗な装飾と京都らしい優雅な山鉾巡行で、京都の観光の目玉となっています。
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