2020年6月26日金曜日

滋賀県大津市穴太の「高穴穂神社」は神話に描かれた古代の都が営まれていた地に鎮座しています

滋賀県大津市穴太は「古事記」の記述によりますと、第12代「景行天皇」が古代の都「高穴穂宮」を造営し、遷都した地とされており、「高穴穂神社(たかあなほじんじゃ)」は「景行天皇」が皇居としていた地に、鎮座したとされています。更にこの地は、飛鳥時代には渡来人が多く住み付いた地でもあったということで、現在は静かな住宅地のこの地が、かつては激動の表舞台にあったということに、歴史のロマンを感じざるを得ません。

「高穴穂宮址」周囲の「穴太の森」

「高穴穂神社(たかあなほじんじゃ)」御由緒

名 称
高穴穂神社(たかあなほじんじゃ)

御祭神

本 殿 
第12代景行天皇(けいこうてんのう・垂仁天皇の第三皇子・日本武尊や成務天皇の父)
・・・開運・栄達の神
合祀 第13代成務天皇(せいむてんのう)
・・・長寿の神

相 殿
・住吉三神(すみよしさんじん)
上筒男神(うわつつのおのかみ)
中筒男神(なかつつのおのかみ)
底筒男神(そこつつのおのかみ)
・・・海上・湖上安全の守護神

・事大主神(ことしろぬしのかみ・大国主命の長男・別称恵比寿大神)
・・・縁結びの神

創 建
景行天皇60年(130年) ・・・創祀年代不詳

御神紋
左三ツ巴

境内社
・八坂神社(やさかじんじゃ・別称祇園社)
 御祭神:素戔嗚尊(すそのおのみこと)
・・・疫病退散の神

・笥飯宮(けひのみや)
 御祭神:第14代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
・・・無病息災の神
    
・唖宮社(あぐうしゃ)
 御祭神:本牟地別命(ほむちわけのみこと・別称譽津別命)
・・・土地農耕の神
    
・康申社(こうしんしゃ)
 御祭神:猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)
・・・道開きの神

例祭等
仲哀天皇祭 3月8日
景行天皇祭 5月3日
成務天皇祭 6月19日

ご利益
開運・栄達、長寿、海上・湖上安全、縁結び、疫病退散、無病息災、土地農耕、道開き

所在地
滋賀県大津市穴太1-3-1

正面鳥居

社伝によりますと、神武天皇の建国以来都は大和地方に置かれていましたが、第12代「景行天皇」は晩年の年の景行58年(128年)、近江の国を視察した後、この「穴太(あのう)」の地に都を遷すことにしました。都は「高穴穂宮(たかあなほみや)」と称されました。その後「景行天皇」は当地で3年間政務を執った後、「高穴穂宮」で亡くなりました。内裏(天皇の住まい)は現在の「高穴穂神社」の本殿の場所にありました。(境内西の現在は住宅地となっている付近にあったとする説もあります。)

・・・日本書紀の「景行天皇」の巻に次の一文があります。

「五十八年の春二月の辛丑の朔辛亥に、近江の国に辛して、志賀に居ましますこと三歳。是を高穴穂宮と謂す。六十年の冬十一月の乙酉の朔辛卯に、天皇、高穴穂宮に崩りましぬ。
(日本書紀 巻七 景行天皇)

「景行天皇」亡き後、皇位を継承した「景行天皇」の子の第13代「成務天皇」は、当地「高穴穂宮」で60年の長きに亘って、「建内宿禰」を大臣に据えて勢力的に政務を執りました。

今では地域の人たちから親しく「お禅納さん」と呼ばれ、鎮守の役割も果たしている「高穴穂神社」は、「成務天皇」が先帝「景行天皇」の遺徳を追頌して、宮殿内に社を建てて祀り、「天徳前王社」または「前王宮」と称したのが創祀とされています。

表参道

拝殿

「成務天皇」は、行政区画として国郡・県邑を定め、それぞれに造長・稲置等の首長役職を任命して、山河を境にして国県を分け、地方行政機構の整備を図るなど、歴代の天皇の中でもトップクラスの行政手腕であったと伝えられています。。

・・・古事記の「成務天皇」の巻に二文があります。

「若帯日子天皇、近つ淡海の志賀の高穴穂宮に坐しまして、天の下治らしめしき。

「建内宿禰を大臣として、大国・小国の国造を定めたまひ、また国々の堺、また大県小県の県主を定めたまひき。」

(古事記 中巻 成務天皇)

本殿(拝所)内裏があった場所

本殿(内裏があった場所)

本殿(側面・内裏があった場所)

「成務天皇」は、自身に嗣子がいなかったため、即位48年の年に兄の「日本武尊」の第2子で甥の「足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと・後の仲哀天皇)」を皇太子に立てて後、即位60年で亡くなりました。

「成務天皇」亡き後、「足仲彦尊」が皇位を継承して、第14代「仲哀天皇」として即位しましたが、「高穴穂宮」に居たのは半年だけであったと伝えられています。以後「高穴穂宮」は、廃宮となって荒廃しました。

なお、「景行天皇」も「成務天皇」も「仲哀天皇」も実在性は高くないとする説があり、とすると「高穴穂宮」の実在性も高くなくなり、事実「高穴穂宮址」とされる地の周辺に建物の遺構は現在のところ発見されていません。

しかし、「高穴穂宮」廃宮から2~3百年後の飛鳥時代になり、朝鮮半島から大挙して押し寄せてきて、この地に住んだ渡来人の住居跡や古墳群は大規模に発見され発掘もされていることから、「高穴穂宮」の遺構は渡来人の住居の下で破壊されてしまったか、あるいは渡来人が遺構を再利用して住んだのかも知れません。

いずれにせよ、たとえ「高穴穂宮」が神話上の架空の都であったとしても、神話の世界の歴史ロマンに遊ぶことぐらいは許されるのではないでしょうか。


相 殿

住吉社

住吉社

事大主神

事大主神


境内社

八坂神社・笥飯宮

右「八坂神社」・左「笥飯宮」

唖宮社

唖宮社

康申社

康申社

境内のその他

砲弾のオブジェ

本殿の前に台座に砲弾を据えたオブジェが奉納されています。台座には「明治37年役 奉献 陸軍大臣 戦利品」と刻まれています。日露戦争の際に露軍から没収してきたものでしようか。

砲弾のオブジェ

穴太衆石積み

この地には渡来人が伝えたという石積みの技術が伝承されています。「穴太衆の石積み」と呼ばれ、各地の城郭や寺社仏閣の石垣の構築に日本各地から引っ張りだこだったそうです。この「穴太衆」の技術は、戦後の高度経済成長期の電力供給のための送電鉄塔の建設に活かされ、この技術屋集団は「坂本の電工」と呼ばれ、日本全国の鉄塔建設や送電線の敷設に大活躍しました。今でもこの地域には「〇〇電工」という名の電気工事会社が多数存在しています。

穴太衆石積み

高穴穂宮址

「高穴穂神社」の周囲に繁る森は「穴太の森」と呼ばれるふるさとの森です。この森の中に「高穴穂宮址」の石碑が立っています。

高穴穂宮址の石碑

現代も「高穴穂宮」の遺構は発見・発掘されていませんが、大津近江京の遷都(667年)から遡ること数百年前に既に大津のこの地に都が置かれていたという歴史ロマンを、大事に守っていっていただきたいものです。



渡来人と野添古墳群

飛鳥時代、朝鮮半島から渡来人が大挙して押し寄せました。渡来人は、琵琶湖の西岸の「大津近江京跡」の錦織地区から北方の坂本穴太地区にかけての比叡山麓を居住地として住まいしました。

この地域一帯では、現在も多くの渡来人の遺跡が発見され、特に近江神宮から日吉大社付近にかけての比叡山東麓には、1000基を超える古墳の密集地となっています。

「高穴穂神社」の西北の丘陵地帯は、「野添古墳群」と呼ばれ江戸時代には「塚穴」として古墳の存在が知られていましたか、昭和44年(1969年)8基の古墳が発掘され、これを契機に「野添古墳群」の全貌が明らかになりました。

穴太野添古墳群

野添第12号墳から琵琶湖を望む

古墳はいずれも経10m前後、高さ3m程度の円墳です。内部には大きな石材を積み上げて玄室(主室)と隧道(通路)とを築く横穴式石室墳です。その築造年代は6世紀前半から7世紀前半頃で古墳時代後期に属します。

野添古墳群

調査によりますと、天井方は失われていましたが、もとの石室の規模は全長5.5m前後と推測されています。古墳の副葬にはこの地域に限られた珍しい竈と窯の炊飯具一式がミニチュアで納められており、渡来人の特徴を強く持っていました。

この時に実施された調査では古墳152基が確認され、大規模古墳群であることが判明しました。

野添古墳群分布図

古墳群の大半は埋め戻され、その地は現代人の墓地として活用されています。琵琶湖を望む東向きの大変環境のよい墓地です。

古墳群跡の墓地

野添古墳群のすぐ東には、渡来人の被葬者たちが暮らした住居跡の「穴太遺跡」が発掘されています。「穴太遺跡」の住居跡からは「オンドル」と呼ばれる朝鮮式の熱煙還流による床下暖房施設が出土しています。このオンドルは「大津市歴史博物館」に移設され展示されています。

穴太の渡来人の古墳石室の築造技術は、末裔の「穴太衆」に伝わり、「穴太衆の石積み」技術は、優れた石垣の技術として全国に知れ渡り、各地の城郭や寺社仏閣の石垣の構築に日本各地から引っ張りだことなりました。




アクセス
JR湖西線 唐崎駅下車 徒歩にて25分
京阪電車石坂線 穴太駅下車 徒歩にて10分 

京阪電車石坂線 穴太駅

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