一之鳥居 |
環来神社(もどろきじんじゃ)御由緒
名 称
環来神社(もどろきじんじゃ)
御祭神
藤原旅子(ふじわらのたびこ・第50代桓武天皇の皇妃)
創 建
創建年代不詳
御神紋
下り藤、右三ツ巴
境内社
・日吉神社
・若宮神社
・下司神社
例 祭
5月5日
別 名
環来大明神
ご利益
・海外旅行の安全
・海外出張の安全
・旅行の安全
・交通安全
・病気平癒
・健康回復
・尋ね人の帰還
所在地
滋賀県大津市伊香立途中町518番地
御神紋
下り藤、右三ツ巴
境内社
・日吉神社
・若宮神社
・下司神社
例 祭
5月5日
別 名
環来大明神
ご利益
・海外旅行の安全
・海外出張の安全
・旅行の安全
・交通安全
・病気平癒
・健康回復
・尋ね人の帰還
所在地
滋賀県大津市伊香立途中町518番地
一之鳥居 「環来大明神」扁額 |
「環来神社(もどろきじんじゃ)」の御祭神として祀られている「藤原旅子(ふじわらのたびこ)」は、奈良時代の天平宝宇3年(759年)、第50代「桓武天皇」を擁立した功労者であった太政大臣「藤原百川(ふじわらのももかわ)」の長女として生まれました。
当時、この地「龍華の荘」(現在の大津市伊香立途中町、上龍華町、下龍華町、栗原)は、藤原氏の領地となっており、また栗原村(現在の大津市栗原)には「百川」の屋敷もあり、「旅子」はこの屋敷で生まれました。
「旅子」は、長じて比良の南麓(一説には大津市栗原)の「最勝寺(さいしょうじ・現在は廃寺)」の開祖となった僧「静安(じょうあん)」に随侍して仏門に入りました。「旅子」は才色兼備では万人が認めるところでしたので、「旅子」のことを人々は「蓮華夫人」と呼んでいました。
そのころ「静安」は、天皇の命によりしばしば宮中に参内して、仏名会(仏名経を読む法会)や灌佛会(釈迦誕生の4月8日の法会)などを行いました。「静安」に随侍していた「旅子」は宮中からも才色兼備で知られており、時の桓武天皇からは「静安」の供として宮中に参内するよう、たびたび召し出されました。
延暦5年(786年)「旅子」は「桓武天皇」の皇妃となり、同年「桓武天皇」の第7皇子「大伴親王(おおともしんのう)」を産みました。「大伴親王」は後に第53代「淳和天皇(じゅんなてんのう)」となります。
「旅子」は「桓武天皇」にいたく寵愛されていましたが、やがて京都の西院に隠棲し念仏三昧の日々を送っていましたが、しばらくして重い病に倒れ、延暦7年(788年)30歳の若さで逝去しました。(当時は、冤罪を恨んで亡くなった、桓武天皇の弟の早良親王の祟りと信じられていました。)
生前「旅子」は、「わが出生の地、比良の南麓に梛(なぎ)の大樹あり、その下に葬る可し」と遺言していたため、「旅子」逝去後、侍従「畑丹波守(はたたんばのかみ)」がこの地で祭祀を行い、神霊として祀られました。
このとき祭祀された「梛の木」は、一之鳥居正面に根元部分を残して、周囲を社で保護して現在も祀られています。「梛の木」は御神木として護られ、その葉はお守りとされてきました。
「梛」は、暖地に自生するまき科の常緑高木で、木材として床柱や家具に使用され、樹皮は染料として使用されます。「梛」は神様の守護として信仰され、熊野神社はじめ熊野三山系の神社では御神木とされており、その葉は災難除けや夫婦円満・縁結びのお守りとされています。
なお「旅子」の御陵は、京都市西京区大江塚原町にあり、「宇波多陵(うはたのみささぎ)」と称します。
時は下って、平安時代末期の平治元年(1159年)、「保元の乱」後に台頭してきた「平清盛」を打倒しようとして「源義朝(みなもとのよしとも・頼朝/義経の父)」が、「藤原信頼」と結んで挙兵した「平治の乱」が勃発しました。結果して「義朝」はこの戦に敗れ、八瀬大原街道から尾張国(現在の愛知県)に向けて敗走し、ようやくにして「環来神社」にたどり着き、白羽鳴鏑(放つと音が出る矢)の矢を献じて武運長久を祈願しました。
※「義朝」は尾張国にたどり着けたものの、臣下の裏切りに遭い殺害されました。
「義朝」とともに尾張国に向かっていた「義朝」の三男「源頼朝(みなもとのよりとも)」は、「義朝」の一行からはぐれて途中の山で迷いながらも、ようようにして「環来神社」に到着して、源氏の再興を祈願し、東国へと足を進めました。しかし追手の追撃は素早く、「頼朝」は近江国で捕らえられ、京の六波羅に送られ死罪は当然とみられていましたが、「平清盛」の継母の「池禅尼(いけのぜんに)」の嘆願で、死罪は免れ「伊豆の国」への流刑となりました。
時をうかがっていた「頼朝」は伊豆で挙兵し、瞬く間に関東一円を支配下に治め、鎌倉に入りました。後に鎌倉は「鎌倉幕府」の本拠地として発展を遂げました。その後、平氏追討に勝利した「頼朝」は、奥州合戦にも勝利して「征夷大将軍」に任ぜられ、「鎌倉幕府」を開きました。
「頼朝」は、この成功は「環来神社」の御神徳と痛く感じ入り、神田を寄進しました。
更に時は下って明治時代に入り、日清戦争・日露戦争が勃発しましたが、「故郷に還り来れる」との「環来神社」の御神徳が口伝えで広まり、この戦争に出征する人々の家族が、この神社に参拝して無事の帰還を祈願しました。
太平洋戦争の際には、無事帰還を祈願する参拝者は引きも切らずで、「源義朝」が白羽鳴鏑の矢と共に馬に着ける鈴も献じていたとの故事から、祈願者は大小の鈴を奉納して、無事帰還を祈願しました。
戦時中は、江若鉄道(現在のJR湖西線)の和爾駅(わにえき)から、約6kmの道のりを全国からお参りする人が訪れ、長い列を作っていたそうです。大切な人の戦地からの無事帰還を祈る最後の頼みだったのでしょうね。
神社の廻りの石の瑞垣には、無事帰還のお礼の奉納でしょうか、地元龍華の人や大阪、山口の人など、全国各地の人たちから寄進された石柱が飾られています。
本殿の鈴の横には、「環来の 神に祈りて 無事カエル」と蛙の置物が置いてあります。
本殿の鈴の上の梁には、眼光鋭い龍の彫り物があります。
戦いが終わって平和な国「日本」になって、「環来神社」では「何事も必ず無事還れる」という御神徳に鑑みて、「海外旅行」「海外出張」「旅行」「交通安全」「病気平癒」「健康回復」「尋ね人」などからの無事の帰還を祈願する参拝者が絶えません。
境内社
日吉神社
若宮神社
下司神社
そのころ「静安」は、天皇の命によりしばしば宮中に参内して、仏名会(仏名経を読む法会)や灌佛会(釈迦誕生の4月8日の法会)などを行いました。「静安」に随侍していた「旅子」は宮中からも才色兼備で知られており、時の桓武天皇からは「静安」の供として宮中に参内するよう、たびたび召し出されました。
延暦5年(786年)「旅子」は「桓武天皇」の皇妃となり、同年「桓武天皇」の第7皇子「大伴親王(おおともしんのう)」を産みました。「大伴親王」は後に第53代「淳和天皇(じゅんなてんのう)」となります。
「旅子」は「桓武天皇」にいたく寵愛されていましたが、やがて京都の西院に隠棲し念仏三昧の日々を送っていましたが、しばらくして重い病に倒れ、延暦7年(788年)30歳の若さで逝去しました。(当時は、冤罪を恨んで亡くなった、桓武天皇の弟の早良親王の祟りと信じられていました。)
生前「旅子」は、「わが出生の地、比良の南麓に梛(なぎ)の大樹あり、その下に葬る可し」と遺言していたため、「旅子」逝去後、侍従「畑丹波守(はたたんばのかみ)」がこの地で祭祀を行い、神霊として祀られました。
このとき祭祀された「梛の木」は、一之鳥居正面に根元部分を残して、周囲を社で保護して現在も祀られています。「梛の木」は御神木として護られ、その葉はお守りとされてきました。
初代の梛の木 |
初代の梛の木 |
「旅子」が再び生誕の地に還って来たことから、「梛の木」は「環来(もどろき)」と名付けられ「龍華の荘」の守護神として崇められるようになりました。
初代の梛の木 |
時は下って、平安時代末期の平治元年(1159年)、「保元の乱」後に台頭してきた「平清盛」を打倒しようとして「源義朝(みなもとのよしとも・頼朝/義経の父)」が、「藤原信頼」と結んで挙兵した「平治の乱」が勃発しました。結果して「義朝」はこの戦に敗れ、八瀬大原街道から尾張国(現在の愛知県)に向けて敗走し、ようやくにして「環来神社」にたどり着き、白羽鳴鏑(放つと音が出る矢)の矢を献じて武運長久を祈願しました。
※「義朝」は尾張国にたどり着けたものの、臣下の裏切りに遭い殺害されました。
二之鳥居と本殿 |
時をうかがっていた「頼朝」は伊豆で挙兵し、瞬く間に関東一円を支配下に治め、鎌倉に入りました。後に鎌倉は「鎌倉幕府」の本拠地として発展を遂げました。その後、平氏追討に勝利した「頼朝」は、奥州合戦にも勝利して「征夷大将軍」に任ぜられ、「鎌倉幕府」を開きました。
「頼朝」は、この成功は「環来神社」の御神徳と痛く感じ入り、神田を寄進しました。
二之鳥居 |
本殿 |
拝殿 |
太平洋戦争の際には、無事帰還を祈願する参拝者は引きも切らずで、「源義朝」が白羽鳴鏑の矢と共に馬に着ける鈴も献じていたとの故事から、祈願者は大小の鈴を奉納して、無事帰還を祈願しました。
戦時中は、江若鉄道(現在のJR湖西線)の和爾駅(わにえき)から、約6kmの道のりを全国からお参りする人が訪れ、長い列を作っていたそうです。大切な人の戦地からの無事帰還を祈る最後の頼みだったのでしょうね。
神社の廻りの石の瑞垣には、無事帰還のお礼の奉納でしょうか、地元龍華の人や大阪、山口の人など、全国各地の人たちから寄進された石柱が飾られています。
瑞垣 |
無事カエル |
龍の彫り物 |
境内社
日吉神社
日吉神社 |
若宮神社 |
下司神社 |
樹齢850年の大杉
本殿への石段の横には、樹齢850年の大杉がたっていました。神社のシンボルであった大杉は、強風毎に枯朽した上部や枝の落下が著しく危険なため、平成30年(2018年)止むを得ず伐採されました。(高さ35.5m、幹回り5.4m、株径2m)
大杉の切り株 |
大杉の切り株 |
手水舎と社務所
手水舎
手水舎 |
社務所 |
今(2020年5月)世界では、新型コロナウィルスの影響で、全世界的に旅行が出来ない状況にあります。国内も海外も、旅行を受け入れてもらえる状況にありません。でも明けない夜はありません。近い将来、旅行が出来る日が来たら、「環来神社」に「無事の帰還」を祈願して旅行に出かけましょう。
アクセス
JR湖西線堅田駅下車 江若交通バス途中行き乗車 環来神社前バス停下車すぐ
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