「養源院」山門 |
寺 号 南叡山(なんえいざん)養源院(ようげんいん)
宗 旨 浄土真宗遣迎院派(けんごういんは)
御本尊 阿弥陀如来
創 建 文禄3年(1594年)
開 山 成伯法印(せいはくほういん・浅井長政の従弟・比叡山の僧)
開 基 淀殿
別 称 血天井・宗達寺
所在地 京都市東山区三十三間堂廻り町656
宗 旨 浄土真宗遣迎院派(けんごういんは)
御本尊 阿弥陀如来
創 建 文禄3年(1594年)
開 山 成伯法印(せいはくほういん・浅井長政の従弟・比叡山の僧)
開 基 淀殿
別 称 血天井・宗達寺
所在地 京都市東山区三十三間堂廻り町656
石畳と楓の参道 |
「養源院」は元は天台宗の寺院でした。文禄3年(1594年)「豊臣秀吉(とよとみひでよし)」の側室「淀殿」が、父「浅井長政」を弔うために、比叡山の僧であった「浅井長政」の従弟「成伯法印」を開山として建立しました。寺号の養源院は、長政の法号「養源院天英宗清」によります。このとき秀吉は300石を寄進しています。
浅井三姉妹
「浅井長政」は、室町幕府末期の北近江(現在の滋賀県湖北地方)の戦国大名でした。当時、室町幕府の権威の低下に伴って各地に戦国大名が台頭して、領国支配と領地拡大でしのぎを削っていました。
北近江の地は、尾張(織田)、美濃(斎藤)、北近江(浅井)、越前(朝倉)のほぼ中心に位置しており、琵琶後西岸から京都への通り道でもあったことから、勢力バランスは非常に難しく緊張状態が続く状況でした。
このような中、尾張の「織田信長」は、北近江の要害の地に「小谷城(おだにじょう)」を構えていた長政と同盟を組もうと考え、織田家と浅井家の両家の政略結婚を企み、自身の妹の「市(いち)」を正室として長政に嫁がせ、織田・浅井の同盟関係を築くことに成功しました。
これで勢力バランスは一気に織田側に傾き、北近江の情勢は織田側有利となりましたが、信長が盟友関係にあった越前の朝倉を攻めたことから、長政は信長の敵対勢力となり、信長に攻め込まれることとなり、最後は2万の軍勢で小谷城を攻め込まれ、自害することとなりました。
長政と市の間に生まれた3人の娘「茶々(ちゃちゃ)」「初(はつ)」「江(ごう)」は、「浅井三姉妹」と呼ばれ、3人はそれぞれ、この時代のヒーローに嫁ぎ、時代の荒波に揉まれていくこととなりました。
長女「茶々(淀殿)」は、後に関白太政大臣となる「豊臣秀吉」の側室となりました。
次女「初(常高院)」は室町幕府の名門で後に小浜藩主となった「京極高次(きょうごくたかつぐ)」の正室になりました。
三女「江(崇源院)」は後に徳川2代将軍となる「徳川秀忠(とくがわひでただ)」の正室となって、3代将軍「徳川家光(とくがわいえみつ)」や「後水尾天皇(ごみずおてんのう)」の中宮(皇后)となった「徳川和子(とくがわまさこ)」を産みました。
文禄4年(1595年)、秀吉は「養源院」境内に大仏殿が完成し、その落慶法要が行われました。このとき秀吉は300石を寄進しています。
元和2年(1616年)、養源院で崇源院(江)によって、淀殿と息子の豊臣秀頼の菩提が弔われました。
養源院は元和5年(1619年)、火災によって大部分の伽藍が焼失しましたが、元和7年(1621年)、崇源院(江)の願により再興されました。後に秀吉がこのあたり一帯を含む広大な「方広寺(ほうこうじ)」を建立した時、そのなかに属しました。
本堂 |
本堂玄関 |
後水尾天皇の中宮で江と秀忠の五女「東福門院」は、江の七回忌の年に秀忠が亡くなったため、両親の大きな位牌を作って養源院に安置し、兄である家光が亡くなった時にも位牌
を作って養源院に安置しました。以降、養源院は徳川歴代将軍の菩提寺、位牌所、皇室の勅願所となりました。
明治元年(1868年)明治新政府による、神仏分離令後の廃仏毀釈によって、本堂以外の堂宇は改造・撤去されました。
その後、太平洋戦争終戦までは、天台宗の寺院でしたが、昭和20年(1945年)に浄土真宗遣迎院派に宗旨替えしました。
本堂から中への拝観は、一定人数が集まる毎に案内の方がついて案内してもらえます。
(ただし堂内より中は写真撮影禁止)
拝観時間 9時~16時
拝観料金 大人600円 中学・高校500円 小学生300円 境内無料
養源院の見どころには、次のようなものがあります。
血天井
「養源院」は、元和5年(1619年)に破却された、秀吉の「伏見城」の建物を移築したものとされています。
本堂の左右と正面の廊下の天井は、関ヶ原の戦いの前哨戦の「伏見城の戦い」で、伏見城に立てこもっていた徳川家の家臣らが自刃した時の建物の床板を使っており、当時武将たちの遺体は残暑の8月から9月ころまで放置されていたと云われ、そのため今も生々しい血の痕が天井板のあちこちに残っています。
山門前の「血天井」の札 |
鶯貼廊下
日光東照宮の眠り猫で有名な、江戸時代の大工「左甚五郎」の作と云われる廊下は、歩くとキュッキュッと鳴ります。これは、夜間などの侵入者検知用のセンサーの役割を果たしていたと云われています。
俵屋宗達の襖絵と杉戸板(重要文化財)
江戸時代の絵師「俵屋宗達(たわらやそうたつ)」が、伏見城で自刃した徳川家の将兵の霊を供養するために描いたものと伝えられています。
「杉戸に描かれた像」や「唐獅子」や「麒麟」などが図案化され、奇抜な表現となっています。
唐獅子(資料画像Wikipedia) |
庭園
江戸時代の庭師で「浅井長政」の縁戚にあたる「小堀遠州(こぼりえんしゅう)」の作庭による庭園で、池の廻りに石組がある池泉式庭園です。東山連峰の阿弥陀ヶ峰を円形にしています。明治期に破壊されましたが、現在は改修されています。
鐘楼堂
「鐘楼堂」は、重要文化財に指定されています。
鐘楼堂 |
山門の北側に「勅使門」があります。皇族やその使者をお迎えする時に使われます。
勅使門 |
その他の見どころ
大聖歓喜聖天の石標
本堂には、秀吉が伏見城に祀っていた「大聖歓喜天」を安置しています。参道をくぐった参道脇にこのことを示す石標があります。
大聖歓喜天の石標 |
福を授かる稲荷神で、水商売関係の信仰が篤く、願掛けのために水桶を奉納します。
白衣弁財天 |
白衣弁財天 |
白衣弁財天(奉納された水桶) |
白鷹龍神・赤桃明神・白玉明神
白鷹龍神・赤桃明神・白玉明神の三稲荷神が、境内のヤマモモの大木に祀られています。木の根元に祠があり、縁結びのご利益があります。ヤマモモは伏見城より移植されたとされ、秀吉の手植えとも云います。樹齢は約400年です。
白鷹龍神・赤桃明神・白玉明神の三稲荷神 |
毘沙門堂 |
毘沙門堂 |
延命地蔵堂 |
大日如来 |
大日如来 |
「養源院」は、波乱の時代を生きた浅井三姉妹に思いをはせるとともに、本堂の血天井に込められた徳川家の家臣たちの怨念も感じられ、また俵屋宗達の摩訶不思議な絵画の世界も体験でき、貴重な時間を過ごすことができる寺院です。
アクセス
京阪電鉄京都線七条駅下車 東方向へ徒歩約8分
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