2020年4月8日水曜日

京都上高野の「蓮華寺」の書院の縁側から庭を眺めていると時間を忘れます

京都市左京区上高野(かみたかの)の高野川のほとり、若狭路(鯖街道)沿いにひっそりと佇む「蓮華寺(れんげじ)」の庭園は、書院の縁側の前に池があり、池には舟石や亀石・鶴石が配置され、そして池の周囲には楓や松などの木々が配置されています。初夏には青もみじ、晩秋には紅葉が池に映え、縁側に座って眺めていると時間の過ぎるのを忘れます。


蓮華寺(れんげじ)由緒

寺 号 帰命山(きみょうざん)蓮華寺(れんげじ) 

宗 旨 天台宗

御本尊 釈迦如来

創 建 創建時期不詳(元は京都の七条塩小路付近にあった西来院)

開 山 実蔵坊実俊(じつぞうぼうじっしゅん・比叡山延暦寺の僧)

開 基 今枝近義(いまえだちかよし)

中 興 寛文2年(1662年) 本堂建立「新善光寺」と改称

別 称 洛北蓮華寺

所在地 京都市左京区上高野八幡町1

「蓮華寺」は、元は京都の七条塩小路付近あった「西来院」という時宗の寺院でしたが、室町時代に天下を二分した応仁の乱(応仁元年の1467年から11年間続いた)で焼失し
ていましたので、江戸時代初期の寛文2年(1662年)に、加賀藩前田家の家老「今枝近義(いまえだちかよし)」が再建したものです。


鯖街道沿いの歩道に八重椿が咲いていました
当地上高野には、近義の祖父「今枝重直(いまえだしげなお)」の庵がありました。重直は美濃国の斎藤道三の家臣「今枝忠光」の子で、織田信長、豊臣秀吉に仕えた後、加賀藩の前田利長に仕えました。重直は晩年には仏門に入り、当地上高野の地に草庵を結び「石川丈山(いしかわじょうざん・文人で作庭家)」「狩野探幽(かのうたんゆう・狩野派の絵師)」らと親交を深め、詩書や絵画、茶道もたしなみました。また、仏門への帰依の念が強く、上高野の地に寺院を建立することを願っていましたが叶わず、寛永4年(1627年)加賀藩前田家の本拠地の金沢の地で亡くなりました。

「今枝近義」が「蓮華寺」を建立したのは、亡き祖父の願いに応え、菩提を弔うためだったと云われています。

「蓮華寺」の元の「西来院」は時宗の寺院でしたが、近義は再建に際して「比叡山延暦寺」の僧「実蔵坊実俊(じつぞうぼうじっしゅん)」を招いたことから、比叡山延暦寺を本山とする「延暦寺実蔵坊(じつぞうぼう・大津市坂本の寺院)」の末寺の一つとして、天台宗の寺院となりました。現在の寺号「蓮華寺」は、現在の境内地にあった廃寺の寺号が「蓮華寺」であったことに由来します。


「蓮華寺」の建立にあたって、詩人で書家・作庭家の「石川丈山」、朱子学者の「木下順庵(きのしたじゅんあん)」、狩野派の絵師「狩野探幽」、黄檗宗の開祖「隠元隆琦(いんげんりゅうき)」や第二世の「木庵性瑫(もくあんしょうとう)」ら、当時のそうそうたる著名人が協力し、また援助したと云われています。これらの著名人の協力を得たことにより、「蓮華寺」は、黄檗宗の様式の建築物と、江戸初期の池泉鑑賞型の典型ともいえる庭園をもった寺院となりました。

境 内

山 門

山門は、建立当時の姿を今に残しています。山門を抜けると庫裏まで石畳の参道が見えてきます。

山門
石畳の参道
参道の万両
鐘 楼

鐘楼は、檜皮葺・宝形の屋根と格子状の壁面をもった禅風の建築物で、創建当時のまま建っています。梵鐘には「黄檗二世木庵性瑫僧」の銘が刻まれており、宇治の「萬福寺」にあるものと同じ様式です。

鐘楼
梵鐘
井戸屋形

鐘楼の向いの苔庭のなかに建つ井戸屋形は創建当時のままです。

井戸屋形
石仏群

山門を抜けて境内に入ると、左手に約300体の石仏群が並んでいます。これらは、今はなき京都の市電の「河原町線」の工事にあたって発掘されたものです。発掘された河原町通りは、かつて鴨川の河原で処刑場や天災・火災による死者の埋葬地でもあったことから、死者の霊を弔う石仏が多く埋没されていたと考えられています。「蓮華寺」の石仏群は、これら掘り起こされた石仏を供養するために集められたものです。中央に「地蔵菩薩像」が、周囲には「大日如来像」が約300体ほど配されているということです。

石仏群
石仏群
土蔵

参道の右手にある土蔵は、明治5年(1872年)まで、男女共学の寺子屋の教室として使われていました。

土蔵
書 院

庫裏

石畳の参道の突き当りには書院と一体化した庫裏があります。「おくどさん」のある庫裏には拝観受付があります。

庫裏
書 院

書院に入るには、まず「阿弥陀三尊」が安置された小部屋「中間部屋」を通ります。この部屋で日常の仏門の行事が執り行われます。

書院は庭園のある東向きに開けられており、庭園を一望することができます。なお、写真撮影は書院からの風景のみ撮影が許可されており、庭園内や本堂の撮影は許可されていませんのでご注意ください。

書院
書院の板戸に描かれた鳶

庭 園

庭園は書院前の「池泉式回遊・鑑賞式庭園」で構成されており、約400坪ほどの広さがあります。作庭者は不詳で、小堀遠州や実俊、石川丈山の名前があげられていますが。「蓮華寺」再建時の寛文年間(1661年~1672年)の作庭とみられています。

この庭園は浄土宗的な形式に従い、池の対岸に浄土を描き、池の周囲を巡り歩くことを想定して作庭されていることから、「池泉回遊式」と呼ばれますが、「蓮華寺」の庭園は規模も小さいので、書院からの鑑賞をメインとした「池泉鑑賞式」の庭園となっています。

庭園の奥には水量の豊かな湧水があり、湧水を導いた池は「水」の字の形に作られており、「水字形」と呼ばれます。池の右手前には「舟石(ふないし)」が配置されています。舟石は入舟の形をしており、浄土を此岸に見出す思想を表しています。

池の左前方には、「亀石」「鶴石」があります。亀石の左後方には、蓬莱山の姿が岩組によって築かれています。蓬莱山には「今枝重直」の一代記が刻まれた石碑が建てられています。

書院縁側から見た池泉式庭園
池泉式庭園の右側の本堂
緑眩しい苔むす庭園
本 堂

書院の右手奥に本堂があります。江戸時代初期に再建されました。本堂の正面は書院から見て裏側にあり、正面には蓮華寺形灯篭2基が並んでいます。本堂の建築様式は黄檗宗のものです。本堂の入り口には「石川丈山」の書による扁額が掲げられています。堂内中央の須弥壇(しゅみだん)の上の螺鈿(らでん)の厨子(ずし)には、ご本尊の「釈迦如来像(しゃかにょらいぞう)」が安置されていますが、厨子は閉じられており33年に一度ご開帳されるということで拝観することはできません。次回ご開帳は2050年となっています。ご本尊の左側には、「阿弥陀如来像(あみだにょらいぞう)」が安置され、ご本尊右側にも螺鈿厨子が置かれ、秘仏として「不動明王(ふどうみょうおう)」が安置されています。天井には、かつて「狩野探幽」が描いたとされる龍の画がありましたが、明治時代に失われ、昭和53年(1978年)に仏師の「西村公朝」によって復元されました。なお、庭園内と本堂では写真撮影が禁止されています。

本堂
「蓮華寺」は、大原へ向かう鯖街道の途中の道の端にあり、ひっそりと佇む寺院ですが、奥の深い落ち着きのある寺院です。書院の縁側に座って庭園を眺めていると、時間が過ぎていくのを忘れてます。また、庭園の池の周りは、初夏には青もみじ、晩秋には燃えるような紅葉が見事です。

庫裏から山門へと続く石畳

アクセス
JR京都駅から京都バス17系統または18系統(土曜休日のみ運行)大原行に乗車
「上橋(かんばし)」バス停にて下車 徒歩すぐ


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