2020年4月24日金曜日

京都山科に忠臣蔵の「大石内蔵助」を御祭神として祀った「大石神社」があります  

京都市山科区の稲荷山の東麓に、「忠臣蔵」「大石内蔵助(おおいしくらのすけ・本名良雄)」を御祭神として祀る「大石神社(おおいしじんじゃ)」があります。毎年12月になるとテレビでは時代劇「忠臣蔵」が放映されます。「忠臣蔵」は江戸時代中期の「赤穂事件」を題材とした時代劇ですが、主君のかたき「吉良上野介」の仇討ちを成功させたのが、赤穂藩の城代家老であった「大石内蔵助」です。




大石神社(おおいしじんじゃ)御由緒 

名 称
大石神社(おおいしじんじゃ)

御祭神 
大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしお)

創 建
昭和10年(1935年)

境内社
・義人社

御神紋
左二つ巴(本来大石の家紋は右二つ巴ですが仇討ち隠棲の意味を込めて逆にしました)

例大祭
4月14日 春季大祭
12月14日 義士大祭

ご利益
願掛け・大願成就

所在地
京都市山科区西野山桜ノ馬場町116

大石神社一之鳥居
大石神社参道の桜
「赤穂事件」の概要は次のようなものです。

江戸時代中期の元禄14年(1701年)3月、赤穂藩主の「浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)」が江戸城内の松の廊下において、高家(江戸幕府の儀式や典礼を司る役職)旗本の「吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)」に対し刃傷におよび、「内匠頭」は即日切腹を命ぜられ、御家は断絶、領地没収となりました。一方「吉良上野介」に対しては何のお咎めもありませんでした。

恐らくは、「吉良上野介」からの田舎大名「浅野内匠頭」に対するパワハラに耐えかねての刃傷沙汰だったものと思いますが、事件当時江戸城内では朝廷の使者を接待中であったことと、当然幕府の中心の江戸城内で刃物を振り回すなど許されるものではなく、時の将軍「徳川綱吉」はカンカンに激怒し、より強い処分が下されました。

幕府の処分の報を受けて赤穂藩内では、籠城徹底抗戦派と城明け渡し恭順派に別れて議論が紛糾しました。当時赤穂藩の城代家老であった「大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしお)」は、両者の意見を取りまとめ、城を明け渡した上で幕府に対し「浅野家再興」と「吉良上野介」に対する処分を求める嘆願書をとどけるということで決しました。幕府に対する嘆願書は数度にわたってとどけましたが、願いは聞き入れられず幕府の収城軍に赤穂城を明け渡し、残務整理を終えた「大石内蔵助」は城を後にしました。

大石神社の「大石内蔵助」討ち入り装束の像
城明け渡しの後、元禄14年(1701年)6月、山科のこの地に田地・屋敷を保有していた親類の遠藤源四郎の世話でこの地に移りました。当時は天台宗の寺院「岩屋寺」の門前は閑静で人目につきにくく、かつ交通に便利(一山超えると京の都)で、浅野家再興の政治工作にうってつけの土地でした。「大石内蔵助」は、「岩屋寺」の門前に閑居を新築し、ここで元禄14年(1701年)6月から元禄15年(1702年)9月まで住んでいました。

また、「大石内蔵助」は縁のあった京都の「泉涌寺」塔頭の「来迎寺」の茶室と、山科の閑居で旧赤穂藩士たちと密議をおこなったと云われています。

「大石内蔵助」は幕府の密偵の目を欺くため、京都の祇園でお茶屋遊びに興じたり、伏見の墨染で廓遊びにふけっていました。

旧赤穂藩士たちは、浅野家再興派と「吉良上野介」仇討ち優先派に分かれはじめていましたが、「大石内蔵助」は急進派を押さえつつ、「浅野内匠頭」の弟「浅野大学長広」をたてて浅野家の再興を謀りました。ところが、翌元禄15年(1702年)夏、結局浅野家再興は許されず、「大石内蔵助」と赤穂義士たちは「吉良邸討ち入り」に方針を決し、同士たちは秘かに江戸へ集まりはじめ、討ち入りの下工作をはじめました。

元禄15年(1702年)12月14日「大石内蔵助良雄」以下四十七士は吉良邸へ向かい、吉良邸の表門には「大石内蔵助」を頭として「片岡源右衛門」ら24名、裏門からは「大石主税」を頭とし「堀部安兵衛」ら23名が、両門より邸を襲撃し、翌12月15日朝6時ころ本懐を遂げました。

その後四十七士は、主君が眠る高輪「泉岳寺」に向かい、主君「浅野内匠頭」の墓前に「吉良上野介」の首級を捧げ仇討ちの報告をしました。

その後、「大石内蔵助」ら四十七士は、細川・松平・毛利・水野の四大名家に分けてお預けの身となり、幕府の御沙汰を待ちました。幕府の評議のなかでは仇討ちを義挙とする意見も多く、助命か死罪かで意見が分かれましたが、結局天下の法を曲げることはできないとして、元禄16年(1703年)2月4日、四十七士全員に切腹が命ぜられました。

「大石内蔵助」は、お預けの身となっていた細川家で切腹しました。享年45歳でした。亡骸は主君「浅野内匠頭」と同じく高輪「泉岳寺」に葬られました。

「大石内蔵助」辞世の句

「あら楽し 思いは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」

大石神社二之鳥居
昭和初期、「赤穂義士」を崇拝していた浪曲師の「吉田大和之丞(2代目吉田奈良丸)」が、「大石内蔵助」が隠棲していた「岩屋寺」の北隣の地に「大石内蔵助」の義挙を顕彰するために「大石内蔵助」を御祭神とする神社を創建することを計画しました。京都府・京都市などに働きかけた結果、京都府知事を会長とする「大石神社建設会」が結成され、全国の崇敬者らの募金によって、昭和10年(1935年)「大石神社」社殿が竣工しました。

本殿 拝所
本殿
大石桜

「大石桜」と名付けられた枝垂桜は、境内中を埋め尽くします。

大石桜
天神牛


天神牛
ブロンズの狛犬

狛犬
義人社

諸説あるようですが、赤穂義士の吉良邸討ち入りに際し、武器を調達した大阪の豪商「天野屋利兵衛」を祀った社です。「天野屋利兵衛」は、大阪の思案橋に廻船問屋の店を構えていた大店で、北組惣年寄となっていました。「忠臣蔵」の物語の中では、武器の調達を嗅ぎつけ子供の喉元に刃を突き付けて自白を強要する幕府の役人に対し、「天野屋利兵衛は、男でござる。」と言って自白を断固拒否したという話が美談として語られています。

「天野屋利兵衛」は、「商売の神様」と言われ、現在も「商売繁盛」を祈願して参拝する人も多いということです。

義人社

忠臣蔵宝物殿

「大石神社」境内には、「大石内蔵助」と「赤穂義士四十七士」にまつわる書や物品、映画や舞台で演じられた「忠臣蔵」にまつわる写真やポスターが展示されてる「忠臣蔵宝物殿」があります。往年の映画スターが演じた「忠臣蔵」のポスターもありますが、この中にはキムタクこと元SMAPの「木村拓哉」が「大石内蔵助」を演じた平成13年(2001年)のフジテレビのドラマ「忠臣蔵1/47」のポスターがあり、これは「木村拓哉」が「大石神社」に直接参拝して奉納したものだということです。

拝観無料です。

忠臣蔵宝物殿
「忠臣蔵1/47」のポスター
大石内蔵助の書




四十七士
忠臣蔵「天野屋利兵衛は男でござる」
「長谷川一夫」主演「忠臣蔵」




ミニホースの花子

何故か境内に「ミニホースの花子」を飼っています。「花子ちゃーん」と呼べばそばに来てくれるかしこい花子ちゃんです。

ミニホースの花子

隠れたお花見スポットです。来年新型コロナウィルスが終息していれば、是非ご参詣ください。



拝観時間 9時~17時 拝観無料 休館日なし

アクセス
JR琵琶湖線山科駅下車 山科駅で京阪バス29C系統乗車大石神社バス停前下車徒歩1分


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