2020年4月17日金曜日

大津市伊香立の「新知恩院」は知恩院が応仁の乱から疎開して創建しました

「新知恩院(しんちおいん)」は、滋賀県大津市伊香立にある浄土宗の寺院です。応仁の乱の戦火に巻き込まれて炎上した京都東山の「知恩院(ちおいん)」は、焼け残った仏像や経典などを避難させようとして、当地に寺院を創建して避難させてきた仏像や経典などを安置して「新知恩院」と名付けました。

山門


新知恩院(しんちおいん)由緒

寺 号 大谷山(おおたにさん)華頂寺(かちょうじ)新知恩院(しんちおいん) 

宗 旨 浄土宗

御本尊 法然上人立像(錦御影・かがみのごえい・そっくり像)

創 建 応仁元年(1467年)

開 山 周誉珠琳(しゅうよじゅりん・知恩院第22世住持)

所在地 滋賀県大津市伊香立下在地町1160

室町時代の応仁元年(1467年)に勃発した「応仁の乱」は、幕府の役人家の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展して京の町を火の海にし、室町幕府第8代将軍足利義政の後継争いも加わって、全国に争いが飛び火し約11年間の長きにわたって内乱が続きました。

応仁元年(1467年)、京都の東山の「浄土宗鎮西義(ちんぜいぎ・鎮西派)本山知恩院(ちおいん)」も例にもれず応仁の乱の戦火に巻き込まれて炎上しました。その時知恩院第22世住持であった「周誉珠琳上人(しゅうよじゅりんしょうにん)」は、焼け残った仏像や経典、古文書類を避難させるべく、知恩院の隣の天台宗寺院「青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)」の所領の近江国滋賀郡伊香立村に向かいました。その際の逸話として、「周誉珠琳上人」は自ら「法然上人立像」を背負って避難したということです。

非難した「周誉珠琳上人」や弟子たちは、一旦伊香立村上在地の浄土宗の寺「金蓮時(きんれんじ)」に疎開しましたが、その後下在地に新たな寺院を造営し、避難させてきた仏像や経典、古文書類を移しました。新たに造営した寺院は「新知恩院(しんちおいん)」と名付けました。

「新知恩院」が創建されると、「周誉珠琳上人」は「青蓮院宮尊応准后(しょうれんいんのみやそんのうじゅごう)」より下在地の寺屋敷地等を安堵(譲り渡す)されました。

本堂
本堂
本堂の「華頂寺」の扁額
「周誉珠琳上人」は、応仁の乱も集結した室町時代末期の文明10年(1478年)に京都東山の地に「知恩院」を再興すると、「新知恩院」に避難させていた仏像や経典、古文書類のほとんどを「知恩院」に戻しました。しかしながら「法然上人立像」他いくつかは引き続き「新知恩院」に安置することにしました。

その後、江戸時代に入り「新知恩院」は近くの「八所神社(はっしょじんじゃ)」を鎮守社として、当時寺領は50石ありました。(八所神社分は10石)

創建時のご本尊は「阿弥陀如来立像」でしたが、途中からは鏡御影と呼ばれ法然上人の姿をそのまま映したものとされた「法然上人立像」をご本尊としました。


鐘楼

鐘楼
「南無阿弥陀佛」と刻まれた梵鐘

境内風景

苔むす林と竹筒の足元灯篭

苔むす林と竹筒の足元灯篭
請願自蔵(地蔵)

請願自蔵(地蔵)
地蔵菩薩

地蔵菩薩
庫裏

庫裏

宝物他

寺宝は、毎年9月第一日曜日に虫干しが行われて、一般公開されます。

重要文化財

・絹本著色阿弥陀二十五菩薩来迎図(鎌倉時代)
・絹本著色六道絵(中国南宋時代)

大津市指定有形文化財

・十六羅漢図(南北朝時代)

その他宝物

・法然上人立像(鎌倉時代)
・選択本願念仏集(室町時代)
・法然上人絵伝(江戸時代)


「新知恩院」は、伊香立の片田舎の里山の中にありながら近くには門徒宗向けの旅館もあり、団体用の駐車場もあって、浄土宗の信徒の聖地となっているようです。





周辺の風景(稜線を超えれば京都大原)
「新知恩院」は、歴史のロマンを感じさせる素敵なお寺です。


アクセス
JR湖西線堅田駅下車 江若交通バス生津行他バス乗車 下在地バス停下車 徒歩約5分


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