一之鳥居 |
名 称
融神社(とおるじんじゃ)
御祭神
正一位 河原左大臣 源融(みなもとのとおる・嵯峨天皇の第八皇子)
(配祀神)・大原全子(おおはらのぜんし・融公の母)
・大山咋神(おおやまくいのかみ・山の神)
創 基
朱雀天皇天慶8年(945年)
境内社(摂社・末社)
・八幡神社
・諏訪神社
・多賀神社
・松尾神社
・春日神社
・稚姫神社
・愛宕神社
・神明神社
・稲荷神社
・若宮神社
・出雲大社
・大己貴神社(おおなむちじんじゃ)
御神紋
十七枚菊
例大祭
4月29日
所在地
滋賀県大津市伊香立南庄牟禮の岡山1846
「融神社(とおるじんじゃ)」は、平安時代初期の天皇「第五十二代嵯峨天皇」の第八皇子で、世界的女流作家「紫式部」が書いた「源氏物語」の主人公「光源氏(ひかるげんじ)」の実在のモデルとされる「源融(みなもとのとおる)」をお祀りする全国唯一の神社です。
「源融」は「河原左大臣」として、小倉百人一首の第14番の詠み人として知られています。恋に悩む心のうちを詠んでいます。
「陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆえに 乱れそめにし 我ならなくに」
「源融」と「光源氏」
「源融」(822年~895年)は、嵯峨天皇の第八皇子として生まれましたが、源の姓を与えられて臣籍(皇族がその身分を離れ姓を与えられ臣下に降りること)となり、左大臣従一位まで出世しますが、結局天皇の子でありながら天皇になれませんでした。紫式部が源氏物語で描いた「光源氏」も同様に天皇になれなかったのです。ただし「光源氏」は臣籍ではあっても「准太上天皇(じゅんだいじょうてんのう)」という天皇に准じた待遇というポジションまで昇りつめます。
また、「源融」は京都の六条河原町の一角に奥州塩釜の風景を模して「六条河原院(ろくじょうかわらいん・現在の渉成園)」という、通常の貴族の邸宅の4倍以上の面積で、庭園や家具調度も豪壮を極めた邸宅を建てましたが、「光源氏」の豪邸「六条院」も「六条河原院」と同じ規模と豪奢さで描かれています。
※現在の南北の通りの名称の河原町通はこの「河原院」の名をとったものです。
京都の嵯峨野の別邸の「栖霞観(せいかかん・現在の清凉寺)」の一隅に、「源融」は「阿弥陀堂」を建てたと云われていますが、源氏物語で「光源氏」は嵯峨野の「栖霞観」のあった場所に「御堂」を建てる様子が描かれています。
紫式部は、まさに「源融」の生きざまをトレースして、「光源氏」という主人公で描き切ったといえるでしょう。
御由緒
当地伊香立の里の南庄は、飛ぶ鳥を落とす勢いのあった「源融」が荘園としていた地で、
現在の「融神社」の地は、「源融」晩年時代の宇多天皇寛平年間(889年~898年)に、伊香立南庄村牟禮の岡山に閑居(別荘)していた旧跡です。その後「源融」がなくなった時、後世の為ということで、鏡一面を神璽(しんじ)として閑居のあった山の上に埋めました。境内社(摂社・末社)
・八幡神社
・諏訪神社
・多賀神社
・松尾神社
・春日神社
・稚姫神社
・愛宕神社
・神明神社
・稲荷神社
・若宮神社
・出雲大社
・大己貴神社(おおなむちじんじゃ)
御神紋
十七枚菊
例大祭
4月29日
所在地
滋賀県大津市伊香立南庄牟禮の岡山1846
「融神社(とおるじんじゃ)」は、平安時代初期の天皇「第五十二代嵯峨天皇」の第八皇子で、世界的女流作家「紫式部」が書いた「源氏物語」の主人公「光源氏(ひかるげんじ)」の実在のモデルとされる「源融(みなもとのとおる)」をお祀りする全国唯一の神社です。
「源融」は「河原左大臣」として、小倉百人一首の第14番の詠み人として知られています。恋に悩む心のうちを詠んでいます。
「陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆえに 乱れそめにし 我ならなくに」
百人一首第14番の河原左大臣(源融) 資料画像(Wikipedia) |
「源融」と「光源氏」
「源融」(822年~895年)は、嵯峨天皇の第八皇子として生まれましたが、源の姓を与えられて臣籍(皇族がその身分を離れ姓を与えられ臣下に降りること)となり、左大臣従一位まで出世しますが、結局天皇の子でありながら天皇になれませんでした。紫式部が源氏物語で描いた「光源氏」も同様に天皇になれなかったのです。ただし「光源氏」は臣籍ではあっても「准太上天皇(じゅんだいじょうてんのう)」という天皇に准じた待遇というポジションまで昇りつめます。
また、「源融」は京都の六条河原町の一角に奥州塩釜の風景を模して「六条河原院(ろくじょうかわらいん・現在の渉成園)」という、通常の貴族の邸宅の4倍以上の面積で、庭園や家具調度も豪壮を極めた邸宅を建てましたが、「光源氏」の豪邸「六条院」も「六条河原院」と同じ規模と豪奢さで描かれています。
※現在の南北の通りの名称の河原町通はこの「河原院」の名をとったものです。
京都の嵯峨野の別邸の「栖霞観(せいかかん・現在の清凉寺)」の一隅に、「源融」は「阿弥陀堂」を建てたと云われていますが、源氏物語で「光源氏」は嵯峨野の「栖霞観」のあった場所に「御堂」を建てる様子が描かれています。
紫式部は、まさに「源融」の生きざまをトレースして、「光源氏」という主人公で描き切ったといえるでしょう。
御由緒
当地伊香立の里の南庄は、飛ぶ鳥を落とす勢いのあった「源融」が荘園としていた地で、
融神社の前の融川に面して立つ「南庄の郷」の碑 |
寛和2年(986年)の春、花山法皇が近江巡幸の際に社殿を造営し、「正一位融大明神」と称されることとなりました。
現在の社地は、深い檜の森に覆われています。
融神社参道入口 |
参道は檜の林の中を進みます |
一之鳥居 |
その後は南庄・谷口・家田・三村の郷の産土の神となりましたが、元亀2年(1571年)
織田信長の比叡山延暦寺焼き討ちのとばっちりを受け、社殿その他焼失しました。
天正7年(1579年)、社殿を再興して神璽を奉還しましたが、後世この神領は武家の所領となりました。
寛政8年(1796年)、社殿は再び火災にあい、勅書、神宝等も焼失しましたが、翌寛政9年(1797年)、社殿および末社等が造営され、現在に至っています。
天正7年(1579年)、社殿を再興して神璽を奉還しましたが、後世この神領は武家の所領となりました。
寛政8年(1796年)、社殿は再び火災にあい、勅書、神宝等も焼失しましたが、翌寛政9年(1797年)、社殿および末社等が造営され、現在に至っています。
二之鳥居(木製) |
拝殿
拝殿では、毎年「源融」の命日の8月25日に舞踏家が「源氏舞」を舞って奉納します。
拝殿 |
本殿
本殿は、向かって右側が「源融」を御祭神としてお祀りする社で、左側が母君の大原全子」と「大山咋神」を御祭神としてお祀りする社です。
本殿 御祭神「源融」(右側) |
本殿 御祭神「大原全子」「大山咋神」(左側) |
境内社(摂社・末社)
若宮社 |
左「愛宕社」右「神明社」 |
稲荷社 |
八幡社 |
出雲社 |
右から松尾社・稚姫社・春日社・多賀社・諏訪社 |
※大己貴神社は見つけられませんでした。
子安地蔵
子安地蔵
子安地蔵 |
その他の社殿他
狛犬 |
手水舎 |
社務所 |
神輿庫 |
大津の伊香立の静かな里に、「源氏物語」の華やかな主人公「光源氏」のモデルとなった「源融」を祀った神社があり、それが全国唯一の神社であるということは地元の誇りでしょう。もう少しPRされもよいのではないかと感じました。滋賀県にとって貴重な観光資源ではないでしょうか。
アクセス
JR湖西線堅田駅下車 江若交通バス生津行他バス乗車南庄バス停で下車徒歩約15分
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