2020年3月25日水曜日

京都市山科区御陵の「天智天皇陵」と「後山階陵」、「後山階陵遺跡(たたら製鉄)」

京都市山科区の「御陵(みささぎ)」には、「天智天皇」の陵墓「天智天皇陵」があります。「御陵」という地名の由来はここからきています。また「御陵」には、仁明天皇の女御「藤原順子」の陵墓「後山階陵」があり、更に6~7世紀のものと云われる「たたら製鉄」の遺跡「後山階陵遺跡」もあります。

天智天皇陵
京都の「山科」は、昭和51年に京都市東山区から独立して山科区になりましたが、古代より文化の足跡を残しており、縄文・弥生時代には人が住み始めていました。平安時代には、「山城国宇治郡山科郷」と呼ばれ、人々が活き活きとした生活を送っていました。

山科区「御陵」の地には、飛鳥時代の大化の改新で活躍した「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」が領地を持ち邸宅を建て、また鎌足が氏寺とした「山階寺(やましなでら)」の跡もあります。それ以降も近代にいたるまで幾多の歴史の舞台となってきました。

また山科は「旧東海道」が通っていた地でもあり、東国から京へのメイン街道「東海道」「奈良街道」の分岐点でもあり、交通の要衝として重要な役割を果たしてきました。


天智天皇陵

この「山科」の地に築かれた「御廟野古墳」は、形状は「八角墳」で古墳時代末期の7世紀末から8世紀にかけて築かれた古墳です。宮内庁により「山科陵(やましなのみささぎ)」として、「第38代天智天皇」の陵墓に治定(じじょう)されています。



「天智天皇(てんぢてんのう)」は、第34代「舒明天皇(じょめいてんのう)」と、後に女性天皇となった第35代「皇極天皇(こうぎょくてんのう)」(後に第37代斉明天皇)の間に第二皇子として生まれました。天智天皇として即位するまでは「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」と呼ばれていました。

「中大兄皇子」は皇極天皇4年(645年)、「中臣鎌足」らと謀り、皇極天皇の御前で「聖徳太子」亡き後専横を極めていた「蘇我入鹿(そがのいるか)」を倒すクーデター「乙巳の変」を起こしました。この事件は、それ以降「中大兄皇子」が様々な政治改革を行う「大化の改新」の始まりとなりました。

「中大兄皇子」は、その後唐と新羅に滅ぼされた百済を復興させるため、百済に兵を送り「白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)」を起こしましたが、大敗を喫しました。

その後、長い間皇位に就かず、天智天皇元年(661年)皇太子のまま称制しました。その後天智天皇4年(665年)に唐に5回目となる「遣唐使」を送り、その一方で天智天皇6年(667年)近江の地に都を築いて「近江大津京(おうみおおつきょう)」を開き、翌年の天智天皇7年(668年)になってようやく即位しました。「天智天皇」が近江の地で「近江大津京」を開いたのは、「中臣鎌足」が山科に居を構えていたのが影響していたとも考えられています。
天智天皇(資料画像Wikipedia)
「天智天皇」は、即位後も政治改革を進め、日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍(こうごのねんじゃく)」を作成して、公地公民制が導入されるための土台を築いていきました。
また「中大兄皇子」時代に水時計「漏刻(ろうこく)」を作り、天智天皇10年(671年)には、近江大津京の新台に置いて「鐘鼓(しょうこ)」を打って、日本で初めて時報を開始したと云われています。このことから「天智天皇」は「時の神様」と呼ばれています。

「天智天皇陵」の向かって左側の入り口通路の脇には、「時の神様」にちなんで「日時計のモニュメント」が設置されています。

日時計のモニュメント
天智天皇10年(671年)、天智天皇は病に倒れました。なかなか快方に向かわなかったため、後を弟の「大海皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)」に託そうとしましたが、固辞されました。同年「天智天皇」は「近江大津京」で崩御したと伝えられていますが、一説では「山科」の当地で崩御し、その時履いていた「履沓」が置かれていた場所に「山陵」を築かれたと云われています。この山陵が「御廟野古墳・天智天皇陵」です。「天智天皇」崩御の際、「沓」が置かれていた石を「御沓石(おんくついし)」といい、陵前に置かれているということです。

「天智天皇」亡きあと、第一皇子の「大友皇子(おおとものおうじ)」と弟の「大海皇子」が後継争いで戦った「壬申の乱(じんしんのらん」で「大海皇子」が勝利し、「大海皇子」は第40代天皇「天武天皇」として即位しました。

「天智天皇陵」は、上円下方墳とみなす場合、上円対辺約46m、下方辺長約70m、高さ約8mです。 

天智天皇陵への参道
天智天皇陵への参道
「天智天皇陵」は広大です。参道を歩くだけでも疲れます。

天智天皇陵
天智天皇山科陵原標
参道途中には、陵門の扉が設置されています。

天智天皇陵門扉
山科のこの地をいつから「御陵」と呼ぶようになったかは定かではありませんが、中世において既に「御陵郷」の地名が確認できるそうですが、いずれにしても「天智天皇陵」があることから「御陵」という地名になったことは異論のないところです。




後山階陵

「天智天皇陵」の北東「毘沙門堂」の北西の地に、「仁明天皇女御尊称太皇太后順子 後山階陵」があります。平安時代前期の第54代仁明天皇の女御(女官)「藤原順子(ふじわらのじゅんこ)」の陵墓です。「藤原順子」は、平安時代初期の公卿で歌人でもあった「藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)」の娘で、仁明天皇の東宮時代に後宮に入り、天長4年(827年)「道康親王(後の第55代天皇文徳天皇)」を産みました。天長10年(833年)仁明天皇の即位に伴い、「女御」となり従四位に叙されました。嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位により、「皇太夫人」になり、仁寿4年(854年)「皇太后」になりました。その後出家して貞観6年(864年)、「太皇太后」になりました。

「藤原順子」は、情が厚く容姿美麗だったと云われています。

後山階陵
後山階陵
後山階陵手前の祠



後山階陵遺跡(たたら製鉄)

「後山階陵」付近の谷あい、雑木林一帯には、古代の「たたら製鉄」が行われていた遺跡が「後山階陵遺跡」があります。遺跡の面積は推計24000㎡になると云われています。飛鳥時代の6世紀から7世紀にかけて、この付近で砂鉄を原材料として、「踏みふいご」で風を送る製鉄方式の「たたら製鉄」が行われていたということです。「天智天皇」が近江の地に築いた「近江大津京」の造営の際にも、ここで製鉄した鉄材が使われていたことと考えられます。

後山階陵遺跡(たたら製鉄)の石標
「たたら製鉄」とは何でしょう。Wikipediaから引用しますと、
日本の古代から近世にかけて発展した製鉄法で、炉に空気を送るために使われる「鞴(ふいご)」のことを「たたら」と呼んでいたためにつけられた製鉄方式の名称です。砂鉄や鉄鉱石を粘土製の炉で木炭を用いて比較的低い温度で還元し、純度の高い鉄を生産できることを特徴としています。
後山階陵遺跡付近の林
後山階陵遺跡付近の沢

0 件のコメント:

コメントを投稿