資料画像(Pixabay) |
罪 状 殺人罪
被告人 80代後半男性
求 刑 懲役12年
判 決 懲役10年
「高齢者と認知症と介護と老後資金の問題」は、私たち一人ひとりにとって眼の前の課題です。さらに私たちはこのことを他人事としてできれば避けたいと思っている課題でもあります。今回の事件は、この課題の解決方法として最悪の結果となった事件です。私たちはこのようなとき、どのように対処すべきでしょうか。
この事件の裁判は、「公判前整理手続」を経て「裁判員裁判」で審理されました。
事件の概要
80代後半の被告人は、認知症の80代後半の妻と二人で暮らしていました。そして事件の当時は、妻は夜中に騒ぎ出したりして意思疎通ができない状態にありました。
事件当日の令和元年7月〇日の朝6時30分頃、被告人の妻は被告人が用意した朝食のパンとコーヒーを今食べたところになのに、「パンはどこにあるの」と言ってパンを探しまわり始めました。被告人が妻に「お前さっき食べたやろ」と何度言っても聞かず「パンはどこにあるの」と探し回りました。そして床にころがったりしましたので、意思疎通ができない妻の行動と言動に苛立ち・激高した被告人は、妻を押さえ付けて床に倒し、何度も踏みつけ、最後に台所にあった刃渡り17cmの包丁で妻の頸部(首)を10回以上突き刺して死亡させました。
犯行後の6時42分、被告人は我に返って自ら110番通報し、駆け付けた警察官に逮捕されました。
被告人には、2人の息子がいますがそれぞれ独立しており、平成1年以降は妻と2人暮らしでした。今回の事件で被害者となった被告人の妻は、平成23年頃からアルツハイマー型認知症を発症し、要介護認定は「要介護1(排泄・食事は1人でできる)」でした。
被害者となった妻は、週3日の通所介護、週3日の訪問介護を受けていましたが、家事を行わず、時に被告人に反発していましたので、たびたび被告人から怒鳴りつけられていました。
被告人は、介護マネジメントを所管する「地域包括支援センター」との間で、妻の今後の生活について話し合いを行っていました。前回の1年前の話し合いでは1年経過後、再度話し合いを行うことになっていました。これまでの話し合いの中で、妻は「要介護2(排泄・食事に何らかの介助を要する)」になっており、センターからは妻の老人ホームへの入所を勧められていましたが、被告人は経済的な理由をもって拒否し続けていました。
被告人は、食事の宅配や通所をできる限り利用するとともに、食事の準備や通院にも介助するとしていましたが、時々妻に対して暴力をふるっていました。
被告人は、直近の「地域包括支援センター」との話し合いの中で、妻の老人ホームへの入所を強く勧められましたが、自らの将来に対する経済的不安から再びこれを拒否しました。この時点で、被告人の預貯金の残高は5800万円あったということです。
被告人は職人をしていた父母のもとに生まれ、地元の高校を卒業後、東海地方の理系の大学に進学しました。その後大学卒業後は東海地方の公的研究所に2年間勤めた後、大手金属メーカーに転職し、定年退職するまでの間、研究職で勤めて多くの研究論文を発表していました。
被告人が30才の時に妻と見合いで結婚し、新婚当時は社宅に入居し生活していましたが、互いに干渉しないという生活スタイルで生活していました。被告人は子供が2人できても、子供にはあまり関わりませんでした。また、給料が出ると自分の小遣いを抜いて残りを妻に渡していましたので、妻は被告人が給料がいくらか知りませんでした。
2人の息子の証言によりますと、被告人は家庭では封建的な亭主関白で「俺の言うとおりにしとけ」というタイプで、妻も被告人の性格をある程度理解して従順にしていましたが、言うことを聞かないこともあり、夫婦げんかはしょっちゅうでした。被告人にとって自分が妻より立場的に上という認識だったようです。
被告人が定年退職したのを機に、夫婦で地元に居を移し、これまで同様にお互い干渉しないよう別々に日々の生活を送っていました。退職後、被告人は金属関係の歴史の研究を生きがいにし、ある意味内向きの生活を送っていました。反面で妻は華道・茶道・俳句と幅広い趣味の世界を楽しみ、俳句では本を出版するなど家の中の生活の楽しみではなく、家の外の世界で華やかで活き活きとした老後生活を送っていました。
なお、被告人に前科・前歴はありません。
この日の公判は、「起訴状朗読」と「罪状認否確認」、「冒頭陳述」、「弁護側立証方針」、「証人訊問」の予定でした。
資料写真(Wikipedia) |
罪状認否確認
被告人:間違いありませんが、一つだけ、検察官の起訴状の内容の中で刺した回数が述べられていましたが、私は頸部に何回刺したかは、はっきり覚えていません。
(被告人の言葉には、あまり反省の感情はうかがえませんでした。)
弁護人:被告人と同意見で、外形的事実については争いません。
冒頭陳述
検察官は、今回の裁判が「公判前整理手続」を経たものであることを説明し、公判廷では「量刑」が審理の焦点となることを告げた後、事件の概要に記載した起訴事実を説明しました。
検察官は裁判員に対して、今回の裁判の「量刑」を決定するうえで考慮すべきは、犯行が計画的で自己中心的であること、被害者が死亡という重大な結果であることと、自首が成立するかどうかということであると主張しました。
弁護側立証方針
一人の命が失われた重大な事件ですが、警察署に拘留されている時は妻に手を合わせ、「何故こうなったのか、どうすればよかったのか」を考え続けており、そして妻の遺産の相続放棄も行っているとして、裁判員に対して被告人の量刑の判断について次の4点について慎重に判断するよう依頼しました。
①1名の命を奪った殺人事件であること。
②突発的であったが強い殺意を抱いた犯行であったこと。
③これまでの被害者(妻)との関係
④自首が成立していること。
証人訊問
検察側の証人として、被告人の長男と次男がそれぞれ別々に法廷に立ちました。
長男(50代後半)証人訊問
検察官
証人と被告人の関係と、現在までの被告人との関係はどうでしたか。
証 人
私は高校卒業と同時に地元を離れ、京都の大学に入学し4年間京都で生活し、大学卒業後も京都で就職し生活しています。現在は妻と娘2人の4人家族です。両親と会うのは、盆と正月と何かの機会があるときだけで、年に2~3日程度です。
検察官
両親夫婦の関係はどうでしたか。
証 人
私は大学に入る前までしか、日常の両親を見ていませんので、その頃のことについて話します。両親夫婦は亭主関白の夫婦で、全て父が決めて母が従っていました。母がアルツハイマーを発症するまでは、家事は母が全てやっていました。それでも母が父と異なる意見を言うこともありましたが、父は時々すごく怒ることがありました。
検察官
被告人の性格や日頃の行動はどのようでしたか。
証 人
他人の言うことを聞かないタイプで、怒った時に手を出すこともありました。私も弟も手を出されました。また、自分の意見を曲げない性格で、事件当時もこの性格は変わっていませんでした。3年ぐらい前に正月に帰省した際には、私家族4人と弟家族4人と両親で一緒にすき焼きをしたのですが、父はすき焼きは醤油だけで食べるものだと言って、砂糖が入っていたすき焼きを全部流しに捨てました。皆は父の性格を知っていましたので、何を言っても怒らせるだけで、説得しても無駄だと黙っていました。
親子の会話でも、私が話をしている途中に割り込んで自分の自慢話ばかりしていました。
父はお金のことはきっちりしていました。自分の給料は自身で管理して母にはきっちりお金を渡していました。また、将来の話として介護施設に入るためにお金を貯めているとも言っていました。
検察官
お母さんはどういう方でしたか。
証 人
母は父に従順でしたが、時に口論やけんかもしていました。基本的に母はおだやかで優しい人でした。母は多趣味で、華道や茶道の仲間と楽しんだり、俳句にも取り組んで俳句本も自費出版していました。母に対しては、育ててもらって感謝しています。
検察官
お母さんが認知症を発症してからの状況はどうでしたか。
証 人
母は平成23年頃から認知症の症状が出始めて、だんだんと家事が出来なくなっていきました。「地域包括支援センター」から要支援1の判定を受けヘルパーを依頼しましたが、私たちに対して同居してほしいとか、助けてほしいとの話はありませんでした。その後、平成29年と平成30年に父と私たち兄弟の家族を交えて話し合いをし、父に母を解放してあげた方がよいと説得しました。この頃には母がぼけかけていましたので、父がものすごく怒って叩いたりしていました。話し合いの中で「ぼけばあさんが!」発言も出てきました。
母の老人ホーム入所の件について、父は老人ホームの施設見学に行くなどしましたが、初年度は金銭的な旨で「やめとこう」ということになりました。今年度は私の妻と施設見学に行きました。
そして、令和元年6月には弟(次男)が探してきた施設が金銭的にも問題ないということで契約直前まで進みましたが、直前になって父が「今入居させたら100才まで生きるだろうから金銭的に無理」という理由で反対に転じましたので、契約に至りませんでした。
検察官
その時、被告人の預貯金はいくらありましたか。
証 人
預貯金は3000万円あり、年金も月に20何万円ありましたので、何とかやっていけるということで、私たちは大丈夫だと説得しましたが、父は無理だと言いました。そして母の住民税を払っていなかったので追徴税も請求されるだろうから、よけいに無理だと言いました。
検察官
事件の直前の被告人の様子を教えてください。
証 人
事件の3日前、父から「久しぶりに焼き肉を食べたい」と電話がありましたので、私の妻が実家の帰り、父と母と3人で焼き肉店に行きました。その時、母は元気だったということでした。私もその後で焼き肉店に駆け付けて、一緒に焼き肉を食べながら母の老人ホームへの入居を説得しましたが、母の住民税の追徴税が心配ということで反対されました。
母の住民税のことを話していたとき、父は少し怒っていましたが、翌日「昨日はすまんかった。言うとおりにする」と電話がありました。これが最後の連絡でした。
検察官
今考えて、どうすればよかったと思いますか。
証 人
半年以上前に、父が手術で入院した時に無理やり母を老人ホームに入居させればよかったのかなと後悔しています。
検察官
お母さんに対しての今の気持ちはどうですか。
証 人
辛くて悲しい気持ちです。私の家族もショックを受けています。
検察官
被告人に対しての今の気持ちはどうですか。
証 人
法にのっとって処罰してもらうよう希望します。
検察官
被告人が社会復帰した後、証人は受け入れることはできますか。
証 人
怖くてとても無理です。
弁護人
被告人の性格はどうでしたか。
証 人
亭主関白で他人の言うことを聞かないという面はありましたが、特別他人と違ってということはありませんでした。
弁護人
被告人との子供の頃の思い出はありますか。
証 人
日曜日にはキャッチボールをしたり、自作キットのトランジスタラジオを一緒に作ったり、旅行に行った思い出があります。私たち息子2人はまともに育っていますので悪い父親ではなかったのかなと思っています。暴力はありましたが、日常的ではありませんでした。
弁護人
被告人は家庭内で打ち解けて話ができましたか。
証 人
進路や友達のことについて、相談は出来ました。父は家の中でよくしゃべる方だったと思います。大人になってからは酒を飲みながら楽しい話もしました。
弁護人
お母さんが認知症を発症されてからの被告人の様子はどうでしたか。
証 人
母は父にしょっちょう怒鳴られたりで、とても見ていられない状況でした。その状況は私の子供たちも見聞きしています。
弁護人
被告人がアルツハイマーの老人を介護しているのは大変だったでしょうね。
証 人
事件の直前に焼き肉店で母に会ったときは、母に父のことを私の弟と紹介されました。
この時は今までで一番ひどい状態でした。
弁護人
お母さんの認知症の状況をどのように聞いていましたか。
証 人
母が徘徊して、知り合いにタクシーで返してもらったり、食事をしたことを忘れて何回も食べるとか、冷蔵庫に物を入れて賞味期限切れになるということなどあり、最近3~4年は父が母を怒鳴ることはしょっちゅうでした。1年前の正月に帰省したときに父が「お前さっき食べたやろー」と言って、母が父に2階から突き落とされたこともありました。
弁護人
被告人について、どのように対応すればよかったのでしょうか。
証 人
別々の施設に入所させた方がよかったのではないかと思いますが、私の家で父も母も引き取ることは無理でした。
弁護人
事件後あなたは被告人に会いましたか。
証 人
会っていません。
検察官追加訊問
被告人とお母さんは家の中でどの場所で寝起きしていましたか。
証 人
父は1階で、母は2階で寝起きしていました。
次男(50代前半)証人訊問
検察官
証人と被告人のこれまでの関係を教えてください。
証 人
大学卒業後、私は神奈川県に住んでいました。両親とは別居しており、年1回正月に帰省して会っていました。ただ、ここ最近は月に1回程度会っていました。私は介護士をしていて、老人ホームの運営に携わっていますので、認知症の老人と接することもあります。
検察官
今回の事件を聞いてどう思いましたか。
証 人
事件の事は、当日の朝神奈川からの移動の新幹線の中で、妻から連絡があって知りました。事件のことを聞いて「やりおったか」と思いました。
父と母のことについては、日々状況が変わっていく中で、今回のことは起きては欲しくなかったのですが、私自身でこれまでの経過から最悪のシナリオを想定していまして、どうしたらいいのか考えていました。結局間にあいませんでした。
検察官
被告人は、お母さんに対してどのように接していましたか。
証 人
父は「いらち」で気が短く、怒りっぽく、すぐに怒鳴っていました。うまくいかないストレスのはけ口として、元々母に対して威圧的に接して、多少手をあげることがありました。
認知症発症前も、封建的な亭主関白で、母に対して「俺の言うとおりにしとけ」という態度でした。母はある程度理解して従順にしていましたが、言い返したり、「言うことを聞いてくれない」と夫婦げんかはしょっちゅうでした。父にとって母は、常に自分が立場的に上というスタンスでした。こんな中で、母は家の中の生活は楽しみではなく、家の外で楽しみを見つけていました。茶道に華道に俳句と楽しみを見つけていました。
平成23年頃、母がアルツハイマー型認知症を発症しました。最初は父も体力的に大丈夫でしたので、母のサポートをしていました。ところが認知症が進むにつれて、母が言うことを聞かなくなったので、父はイライラして「何でわからんのや」と怒鳴りつけ、言うことを聞かないときは母に対して荒っぽいことをしていました。去年正月に帰省した際に、父が母を突き飛ばした後押え付けたのを見て、介護職の立場から見てケアから全く外れていると思いました。
母を私が探してきた老人ホームに入れるという話は、事件の2~3ヶ月前に具体的に行動していました。この父への提案に対して、父は「そーだろうなあ」と答えていましたが、意思決定の流れの中で父は分かったと言っても、直ぐに話をくつがえしました。このことは、提案の内容が具体的になればなるほど、顕著になってきました。
検察官
被告人は何故、お母さんを老人ホームに入居させることを渋ったのでしょうか。
証 人
父は一人で暮らすことが怖かったのではないかとも思いますし、お金を使うことがもったいないと考えていました。また、母が老人ホームに入ることによって、お金が足りなくなるということに対して恐怖心も抱いていました。
検察官
事件当時、被告人はお金はいくら持っていたのですか。
証 人
預貯金は4~5千万円持っていましたので、老後の蓄えとしては十分でした。父は母が老人ホームに入ると長生きするとして「100才まで生きたら足らんぞ」と言っていましたが、私の介護の経験からは老人ホームに入居後3年が寿命というのが大半ですので、心配することはないと思っていました。
とにかく父はお金に対して几帳面で、それまでもお金の管理は100%父が握っていましたので、お金に減ることに対する恐怖心があったのだと思います。
この時点で傍聴を打ち切って法廷を出ましたので、この後の次男に対する弁護人側の反対訊問の様子は聞いていません。
論告求刑
新聞報道によりますと、後日「被告人質問」が行われ、結審して、検察側は「論告」のなかで「被告人は身勝手な理由で妻の老人ホームの入居を拒んだ結果、怒りを爆発させた。介護疲れで起きた事件ではない」と断罪して、被告人に対して「懲役12年」を求刑したということです。
弁護側最終弁論
新聞報道によりますと、弁護側は、最終弁論のなかで「公訴事実については争わない」としたうえで、「被告人は高齢であり、死ぬまでに妻の墓前で謝罪する機会を与えてやってほしい」と減刑を求めたということです。
判決言い渡し
新聞報道によりますと、更に後日、被告人に対して「判決の言い渡し」が行われました。この中で裁判長は、被告人に対して「懲役10年」を言い渡しました。その後の理由説明のなかで裁判長は「認知症と知りながら怒りを爆発させ、強い殺意をもって殺害に及んだ。介護疲れも同情の余地はあるとしながらも、将来への不安から妻の老人ホームへの入居を拒んだのは、自分の都合を優先させたものである」として断じたということです。
裁判の向こう側
冒頭にも書きましたが、「高齢者と認知症と介護と老後資金の問題」は私たち誰もが抱える可能性のある問題です。誰にも老いは来ますし、認知症の可能性もあります。夫婦二人であれば、どちらが介護する・される場面も当然想定されます。昨年厚労省が発表した老後の必要資金2000万円の問題は、撤回されたとはいえ高齢を迎える誰もが身につまされる問題です。
今回の事件は老後のお金について、あまり理解していない被告人が、介護する立場となったことで、妻を老人ホームに入居させると自らの老後資金が足りなくなると踏んだ結果、招いた事件だと思います。高齢者の事件とはいえ、あまりにも身勝手な結末でした。
充分な預貯金が有りながら、妻を老人ホームに入居させることを拒んだがゆえに、自らが認知症の妻を全面的に介護することになって、抱えきれなくなって挙句の果てに妻を殺害してしまった。
この事件は、あまり大きくメディアで報道されませんでしたが、この事件を契機に今一度「高齢者と認知症と介護と老後資金の問題」についてしっかり考えてみたいと思ったものでした。
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