本圀寺(ほんこくじ)由緒
寺 号 大光山(だいこうざん)本圀寺(ほんこくじ)
宗 旨 日蓮宗
御本尊 三宝尊
創 建 建長5年(1253年)
開 基 日蓮上人が鎌倉に法華堂を建立したのを前身とする
宗 旨 日蓮宗
御本尊 三宝尊
創 建 建長5年(1253年)
開 基 日蓮上人が鎌倉に法華堂を建立したのを前身とする
札所等 洛中法華21ヶ寺
所在地 京都市山科区御陵大岩6
所在地 京都市山科区御陵大岩6
「日蓮宗」は、鎌倉時代中期に宗祖「日蓮上人」が興した仏教の宗旨で、法華宗とも称します。「日蓮上人」は、「立正安国論」を説いたことでも知られていますが、宗旨の教義としては経典「妙法蓮華経」を釈迦の本懐として最高無上とし、お題目「南無妙法蓮華経」を唱えることを重視しています。
日蓮宗は宗祖「日蓮上人」が鎌倉の松葉谷に「法華堂」を構えて22年間住持したことから始まると伝えられています。「日蓮上人」亡き後は、宗派は教義の解釈の違いなどから分派と習合を繰り返し現在に至っています。
「本圀寺」は、暦応元年(1338年)南北朝時代の僧「日静上人(にちじょうしょうにん)」が、鎌倉の「本勝寺」を時の光明天皇から寺領を拝領した京都市内の六条堀川の地に移転し、「本国寺」と改称しました。寺域は広大で、東西2町、南北6町にわたり、御所の裏鬼門の方角に配置され、皇室鎮護の霊場になりました。
本堂前の「日静上人の像」 |
室町時代の天文5年(1536年)、南近江の守護六角氏と法華宗と対立する延暦寺宗徒が、京都の法華一揆を破り、京都の法華宗21本山を焼き討ちした「天文法華の乱」では、法華一揆の拠点になって最後まで防戦しましたが、最後には「本国寺」は焼失し、大阪堺の成就寺に避難することとなりました。
その後、天文11年(1542年)勅許により、帰洛を許され「本国寺」の再建に着手し5年後の天文16年(1547年)、京都六条に再建されました。
その後、織田信長によって伽藍の一部を二条城の築材として召し上げられ、豊臣秀吉からは寺域の一部を本願寺造立のため割譲されました。
江戸時代初期、「徳川将軍家」、豊臣秀吉の姉「日秀尼」や、日蓮宗の熱烈な信徒であった戦国武将の「加藤清正」らの寄進によって、「本国寺」の伽藍は拡充されました。
江戸時代初期、「水戸黄門」で知られる「徳川光圀」が「本国寺」で生母「久昌院」の追善供養を行い、貞享2年(1685年)光圀から「圀」の字を字を下されて「本圀寺」と改称しました。
その後、天明8年(1788年)当時の京都市街の8割を焼失した「天明の大火」によって、「本圀寺」は現存する「経蔵」を除き、全ての伽藍が焼失しました。
経 蔵
「経蔵」は現在の「本圀寺」に移転され、「国宝」に指定されています。
経蔵 |
背後の建物が「経蔵」 |
昭和44年(1969年)、時の「伊藤貫首」のもと、「本圀寺」は六条堀川から山科の地に移転することを決定し、昭和46年(1971年)本師堂と客殿が完成し、現在も移転に係る工事は継続しています。なお、「本圀寺」の山科移転後も、塔頭16院は旧地に残り所在しています。
正嫡橋
「本圀寺」は京都市山科区の御陵の地の「天智天皇陵」の北方山際にあり、琵琶湖から京都市内へ水を送る「山科疎水」に「正嫡橋」を架けて参道を作っています。
山科疎水に架かる「正嫡橋」 |
山科疎水 |
総 門
総門には「総門要付關(そうもんようふかん)」と書かれた扁額が掲げられています。
開運門(赤門)
総門の次の「開運門」(通称赤門)には「大光山」と書かれた扁額が掲げられています。
この山門は文禄元年(1592年)、「加藤清正公」が寄進した山門で、平成8年(1996年)に修復し復元したものです。加藤清正公の出世にちなんで、開運のパワースポットとされています。
赤門 |
三解脱門(仁王門)
「三解脱門」には、「正嫡付法」と書かれた扁額が掲げられています。門の左右には金色の彩色のある仁王像が睨みを利かせています。
三解脱門 |
三門 |
仁王像 |
仁王像 |
大本堂
祖師堂を兼ねる「大本堂」には、国内最大最古の「一蓮華台上一塔両尊四士本尊」が安置され、日本最大最長の「輪蔵式彩色経蔵(重要文化財)」他が収蔵されています。
鐘 楼
「九名皇諦尊女」は「くみょうさま」と呼ばれ、火難・水難・地難・風難除けの神様です。本尊は「大本堂」に安置され、この堂内には「九名皇諦尊女石」が祀られています。
「がん」などの難病をお救い下さるご利益があり、「女人守護・火中出現のくみょうさま」としてもご利益があります。
手水舎
寺務所(茶芸閣)
大本堂 |
大本堂前の「日静上人」像 |
本師堂(釈迦堂)
「本師堂」には、日蓮上人御持仏の「勅閻浮堤立像釈尊像」が安置され、「源平合戦屏風」なども収蔵されています。
本師堂 |
本師堂前の冠木門 |
弐天門
弐天門 |
勅使門(唐門)
勅使門 |
清正宮(清正廟)
「賤ケ岳七本槍」の一人として知られる戦国時代の武将「加藤清正」は、「日蓮宗」の熱烈な信徒で、「本国寺」の伽藍の再造営の際に尽力し、開運門や経蔵を寄進しました。また朝鮮出兵の際には、両親の遺骨、自身の肉や歯、頭髪などを石棺に収め、生前墓を「本国寺」に建てました。
そして、「加藤清正」没後は、境内に清正の霊を祀る「清正廟」を建て、清正の霊を弔いました。これが「清正宮」です。
「清正宮」は、金色の鳥居が迎えてくれます。(ご利益が期待できます)
金色の鳥居 |
「清正廟」も金色です。
清正廟 |
清正廟 |
清正廟の精緻な飾り彫り |
「鐘楼」には、文禄2年(1593年)に豊臣秀吉の姉「日秀尼(豊臣秀次の母)」が寄進した「大梵鐘」が吊られています。
鐘楼 |
九名皇諦尊女
「九名皇諦尊女」は「くみょうさま」と呼ばれ、火難・水難・地難・風難除けの神様です。本尊は「大本堂」に安置され、この堂内には「九名皇諦尊女石」が祀られています。
「がん」などの難病をお救い下さるご利益があり、「女人守護・火中出現のくみょうさま」としてもご利益があります。
九名皇諦尊女石 |
手水舎 |
寺務所 |
「開運門」の前の駐車場には、紅梅が咲いていました。
「本圀寺」は、多くのパワースポットがあります。ご題目を唱えてご利益をいただきましょう。
アクセス
京都市営地下鉄東西線 御陵駅下車(2番出口) 徒歩10分
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