2019年12月3日火曜日

世界遺産「国宝姫路城」は見どころたっぷりな白亜の要塞です その2

前回の投稿「世界遺産「国宝姫路城」は見どころたっぷりな白亜の要塞です その1」では、「国宝姫路城」の観覧順路に沿って各門から大天守閣の内部の見どころをご紹介しました。今回は「播州皿屋敷お菊の井戸」にまつわる話や、「西の丸」「百間廊下」「千姫」のお話などをご紹介させていただきます。

西の丸庭園から大天守と西・乾小天守
「播州皿屋敷 お菊井戸」

「一枚 二枚 三枚 ・・・・・・ 九枚」 ドロドロドローの後、髪を振り乱した「お菊」の亡霊が井戸から現れ、「うらめしやー」 となる「番町皿屋敷」の怪談噺は落語や講談で有名で、聞いたことのある方も少なからずあると思いますが、実はこの怪談噺は類似のものが全国に多くあるそうです。

ここ「姫路城」には皿屋敷伝説のルーツと云われる「播州皿屋敷のお菊」の怪談噺があります。そして「姫路城本丸」下の「上山里」の広場にはお菊が投げ入れられたという「お菊の井戸」が現存します。

お菊の井戸
お菊の井戸
お菊の井戸(深そうです)
「お菊の井戸」の「播州皿屋敷のお菊」の怪談噺は掲示板を引用すると次のとおりです。
この井戸は、播州皿屋敷の怪談で知られる「お菊井戸」といわれています。永正年間(1500年頃)、姫路城主「小寺則職(こでらのりもと)」の執権「青山鉄山(青山てつざん)」は、家臣の「町坪弾四郎(ちょうのつぼだんしろう)」と語らい、城を奪おうと企てていました。則職の忠臣「衣笠元信(きぬがさもとのぶ)」は、「お菊」を青山家に女中として住み込ませ、その企てを探らせました。則職暗殺を探知したお菊が元信に知らせたため、則職は家島(姫路市沖の播磨灘の島)に逃げて殺されずにすみましたが、城は鉄山に乗っ取られました。お菊の動きを知った弾四郎は、お菊を助ける代わりに結婚を強要しました。元信を慕うお菊はそれを拒みました。弾四郎はそんなお菊を憎み、青山家の家宝の10枚揃いの皿り1枚を隠し、その罪をお菊にかぶせて責めあげました。それでも弾四郎を拒むお菊は、ついに切り殺されて井戸に投げ込まれました。
その後、毎夜この井戸から「1枚、2枚、3枚・・・・9枚」と9枚目まで何度も数えるお菊の声が聞こえたと云います。やがて元信らが鉄山一味を滅ぼし、お菊は「於菊大明神(おきくだいみょうじん)」として、「十二所神社」内に祀られました。
皿やしき於菊乃霊(資料画像Wikipedia)
この噺は、「播州皿屋敷実録」と呼ばれ江戸後期に書かれた戯作(通俗小説)でオリジナルから脚色が加えられているそうです。

後日談として、その後300年ほど経って城下に奇妙な形をした虫が大量発生し、人々はお菊が虫になって「お菊虫」となって帰ってきたと言っていたということです。

お菊虫(ジャコウアゲハの幼虫)資料写真(Wikipedia)
「扇の勾配」

高石垣の角の部分を横から見ると、上にいくほど反り上がる曲線を描いていて、扇を広げたときの曲線に似ていることから、こうした曲線をもつ勾配を「扇の勾配」と呼んでいます。石垣が高くなるほど、内部から積石に大きな圧力がかかり、石垣を崩す原因になります。その力に耐えられるように裾部は傾斜を緩くしています。上部は垂直に近い急傾斜なので、敵に石垣を登らせないようにしていると云われています。

石垣の角には、直方体の石を長短の辺が交互になるように積まれています。直方体の石が算木に似ていることから算木積みといいます。

扇の勾配と算木積み
石垣の角の算木積み
明治初期の姫路城の鳥観図
「西の丸」

「西の丸」は、伊勢桑名藩第2代藩主で後に江戸時代の「播磨姫路藩初代藩主」となった「本多忠政(ほんだただまさ)」が、伊勢桑名から移ってきた時に整備・拡張された曲輪(くるわ・城の内外を石垣・塀などで区画した区域)です。北端の「化粧櫓」「櫓群」、更にこれらを結ぶ「渡櫓(長局)」が残っています。

次の写真は大天守から「西の丸」を望んだ写真です。中央右側の大きな櫓が「化粧櫓」、周囲を囲む「渡櫓(長局)」と所々に「櫓」が見えます。

大天守から西の丸
「西の丸」の中央部分は、「秀政」が息子の「忠刻(ただとき)」将軍「徳川秀忠(とくがわひでただ)」の長女「千姫(せんひめ)」をめとった際に御殿を建てたところで、「中書丸(ちゅうしょまる)」といわれていました。現在その御殿はなく、庭園のみ残っています。

中書丸の跡
「西の丸」の掲示板の説明文を引用します。
この曲輪は、姫路城主本多忠政が大坂夏の陣の後、将軍徳川秀忠の長女千姫をめとった息子忠刻のために、元和4年(1618年)に御殿を建てたところで、「中書丸」ともいわれていました。中書とは忠刻の官職中務大輔(なかつかさだゆう)の唐名です。
御殿を囲むように築かれた長屋は通称「百間廊下(ひゃっけんろうか)」ともいい、約300mの長さになります。そのうちヨの渡櫓から北の部分が長局(ながつぼ)です。小さな部屋が廊下に面して並んでいて、西の丸御殿で働く女中が住んでいたとみられます。
長局の北端に化粧櫓があります。大きく解放された窓や床の間、畳敷きなど、他の武骨な櫓に比べると、人が居住できる拵えになっています。千姫が男山にある天神社を拝むため西の丸に来た際に、身づくろいをしたり、休息した場所といわれています。
西の丸「百間廊下」に入っていきます。ここで下足して履物はポリ袋に入れて出口まで持って歩きます。

タの渡櫓の百間廊下入口
「百間廊下」を入って直ぐに姫路城の歴史や歴代城主、建物の構造などについての説明掲示板が配置されています。








「百間廊下」は、「ワの櫓」から「化粧櫓」まで約240mと長い廊下が続いています。

タの渡櫓からの百間廊下
百間廊下途中の櫓の窓から天守閣
百間廊下途中の櫓の窓からタの渡櫓
「ヨの渡櫓」から北の部分は「長局」で、廊下の東側に小さな部屋が廊下に面して並んでいます。この小部屋には西の丸の御殿(中書丸)で働く女中が住んでいました。廊下の内装も「タの渡櫓からの百間廊下」と異なり、天井が貼られ、小部屋には納戸が設けられるなど人が住むことを想定した造りになっています。
次の写真を見ていただくと、右側に八畳程度の小部屋が並んでいるのが確認いただけると思います。

ヨの渡櫓から北の百間廊下
「千姫と化粧櫓」

化粧櫓の畳の間(千姫人形が置かれています)
畳の間の入口の掲示板の「千姫と化粧櫓」の話を引用します。
千姫は徳川二代将軍秀忠の姫君に生まれ、政略によって「豊臣秀頼(秀吉の三男・淀殿茶々の第二子)」に嫁した(このとき千姫7才、秀頼11才)が、大坂落城の際に救い出され、のち本多忠政の子「忠刻」に再嫁した。
元和3年(1617年)忠政が伊勢桑名から姫路15万石の城主となったとき、忠刻も千姫の化粧料(持参財産)として部屋住みのまま10万石を与えられ、姫路に移り住んだ。
忠刻と千姫の居館は、西の丸内に本館として「中書丸」を、桐の門内に下屋敷として「武蔵御殿」をそれぞれ築き住んだ。
これらの建物は多く豊臣秀吉が築いた「伏見桃山城」を取り壊した用材を移して建てたもので、桃山時代の立派な書院造りの建物であった。
千姫は「天満天神」を信仰し、姫路へ来てからは、西方の丘「男山」にこれを祀り、毎朝西の丸の長局の廊下から参拝した。このときこの化粧櫓を休息所として利用した。
忠刻と千姫の夫婦仲は睦まじく、姫路に来てから相次いで「勝姫(後の池田光政室)」「幸千代」の二児ををもうけ、平和な日々を送ったが、この平和は長続きせず幸千代は3才で早逝、忠刻も寛永3年(1626年)31才で世を去った。
千姫は、同年落飾(髪を剃り落として仏門に入ること)して「天樹院」と号し、悲しみのうちに姫路を発って徳川家に帰った。
この化粧櫓は、中書丸や、武蔵御殿が無い今、わずかに千姫の面影を偲ぶただひとつの建物である。
「千姫」の画像検索結果
千姫(資料画像Wikipedia)
「千姫」は、7才という幼い身で戦国時代の政略のため、いわば人質として敵方の豊臣家に嫁しました。千姫はその後は秀頼と仲睦まじく暮らしていましたが、その後、大坂夏の陣で豊臣方の敗北が明白になったため、秀頼とともに自害も覚悟していました。ところがすんでのところで徳川方に救出されたのです。秀頼はその後自害し、千姫は失意のなか体調を崩し床に伏していました。その後、失意が癒えたころ本多忠刻に再嫁し平和な日々を過ごしていましたが、その10年後千姫に再度悲劇が襲いました。3才の娘が亡くなり、翌年主人忠刻も31才の若さで亡くなりました。失意の千姫は出家して尼僧となりました。
この千姫の悲劇は、多くの映画やテレビドラマでも取り上げられましたので、多くの人が涙したことでしょう。

化粧櫓
長局の廊下から望む千姫が拝んだ男山の千姫天満宮
化粧櫓から天守閣
百間廊下出口
西の丸百間廊下出口付近から望む天守閣
姫路城迎賓館付近から西の丸の石垣と櫓
「天守の庭」

「天守の庭」では、大天守の人工地盤建設にあたり、不要となった礎石を元通りに配置して天守台の平面形を再現展示しています。(この説明文を引用します。)

大天守を建てる時、柱は礎石の上に据えられました。ところが6千tもの建物の総荷重がかかり、地盤が沈下しました。礎石には高低差が生じ、天守台石垣も東南隅が約26cm沈んでしまいました。そのため大天守は補強柱や筋交いなどを挿入しないと自立できないほど傾いてしまったのです。そこで、昭和の大修理では、地盤沈下を防ぐため、地下の岩盤に鉄筋コンクリートの人工地盤を築きました。大天守の重量を直接岩盤に受け持たせるためです。この時の工事では、天守台石垣の内部を岩盤まで掘削したため、礎石が不要となったのです。

天守の庭
世界文化遺産「国宝姫路城」の観覧はこれで終わりです。「大手門」を出て姫路城をあとにします。

大手門
外堀

「姫路城」は、豪壮・華麗でそして見どころいっぱいでした。1日いても飽きないスポットでした。桜の季節にもう一度来てみたいものです。

アクセス
JR山陽本線・新幹線・山陽電鉄 
姫路駅北口から神姫バス乗車「大手門前」バス停下車徒歩5分
JR山陽本線・新幹線・山陽電鉄 姫路駅下車徒歩20分



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