御祭神
倉稲魂大神(うがのみたまのおおかみ)
猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)創 基
奈良時代 和銅4年(711年) 元明天皇の御代
(御神鏡の記録では飛鳥時代の仏教伝来(538年)の頃の御鎮座)
境内摂社
白菊稲荷大神(しらぎくいなりおおかみ)
例 祭
5月3日か5日
所在地
京都市南区唐橋西寺町57
ご利益
・勝負運、競技勝利、賭博勝利、社運隆盛、出世祈願、大入・商売繁盛、交通安全、子供守護、五穀豊穣、夫婦和合 「奇蹟を生む神様のご霊験あり」
・サムハラ御守は、災難除け・奇蹟・勝運を招き、身に付けていると事件・事故に逢わないと云われています。
「サムハラ」は、文字としては下の写真のお守りに書かれている四文字ですが、四文字ともに当用漢字にも常用漢字にも存在しない文字です。
「鎌達稲荷神社」は、平安京へ遷都した際に「東寺」と対に建立された「西寺跡」の一角にある小さな神社ですが、御祭神の「倉稲魂大神」は、五穀をはじめ衣食住および商工業繁栄の神と敬われ、萬生業に福利を授け給ういわゆる「開運の神」です。「猿田彦大神」は、天孫瓊瓊杵尊(てんそんににぎのみこと)が御降臨の時、道案内された神で、広く人事を良きに導き給う神であり、「家内安泰、交通導きの神」です。「倉稲魂大神」と「猿田彦大神」の主神二柱の鎌達様信仰のご利益由来には、「幸運・勝負運を招き、奇蹟を生む神様のご霊験あり」と敬われています。
また、「鎌達稲荷神社」は、平安時代の「陰陽師(おんみょうじ)・安倍晴明(あべのせいめい)」の子孫の「安倍家・土御門家」が祭祀を行っていました。「陰陽師」は、「陰陽五行説」や「呪術」「占術」「天文学」を駆使して、未来予知を行う技術を云います。
更に、「鎌達稲荷神社」には法力を自在に駆使した平安時代の僧「浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)」を祀った塚もあります。「浄蔵貴所」は傾いた「八坂の搭」を法力で元に戻したり、自らの父親の葬列が一条戻り橋に差し掛かった時に、法力で父親を一時的に蘇らせたりなど多くの逸話が残っています。
そして更に、「鎌達稲荷神社」は身に付けていると事件・事故に逢わず災難除け・奇蹟・奇蹟・勝運を招くと云われている「サムハラ御守」を授けていただける全国的にも数少ない神社の一つです。「サムハラ御守」は、日清・日露戦争の際に弾除けとして兵士がこれを身に付けて戦場に赴き、多くの命が救われたということで現在でもこれを身に付ける人達が多いと云われています。「サムハラ神社」は「岡山の津山」と「大阪の立売堀」の2ヶ所あり、大阪の「サムハラ神社」ではこの御守を授けてもらうのに行列が出来るほど有名な御守です。
ことほど左様に、「鎌達稲荷神社」は霊験あらたかな神社として京都の隠れたパワースポットとして有名な神社です。
「鎌達稲荷神社」は、創建の詳細は不詳ですが、奈良時代の和銅4年(711年)に御鎮座されたと伝えられており、稲荷神社の全国総本宮と云われている「伏見稲荷大社」の御鎮座も和銅4年とされていますのでほぼ同じ時期に創建されていることになります。ところが別の「御神鏡」の記録によると飛鳥時代の仏教伝来(538年)の頃の御鎮座という記述もあり、こちらの記述から読み解くと「伏見稲荷大社」よりも古くに創建されており、「元稲荷」とも伝えられています。
「鎌達稲荷神社」は、平安時代の「陰陽師・安倍晴明」の子孫「安倍家」、「土御門家」の鎮守社でした。また、「安倍家・土御門家」が祭祀を行い、代々の天皇の祈願が行われ、畿内七道の総産土神として、平安朝および人民にご利益を施し、天下泰平・五穀成就の祈願所であったと伝えられています。
室町時代の記録によりますと、「鎌達稲荷神社」は当初は七条村梅小路にあった「土御門邸」の東方附近にあって、平安時代の「陰陽師・安倍晴明」の子孫の安倍家・土御門家により祭祀が行われていたとのことです。
(御神鏡の記録では飛鳥時代の仏教伝来(538年)の頃の御鎮座)
境内摂社
白菊稲荷大神(しらぎくいなりおおかみ)
例 祭
5月3日か5日
所在地
京都市南区唐橋西寺町57
ご利益
・勝負運、競技勝利、賭博勝利、社運隆盛、出世祈願、大入・商売繁盛、交通安全、子供守護、五穀豊穣、夫婦和合 「奇蹟を生む神様のご霊験あり」
・サムハラ御守は、災難除け・奇蹟・勝運を招き、身に付けていると事件・事故に逢わないと云われています。
本殿 |
「サムハラ」御守 |
「鎌達稲荷神社」は、平安京へ遷都した際に「東寺」と対に建立された「西寺跡」の一角にある小さな神社ですが、御祭神の「倉稲魂大神」は、五穀をはじめ衣食住および商工業繁栄の神と敬われ、萬生業に福利を授け給ういわゆる「開運の神」です。「猿田彦大神」は、天孫瓊瓊杵尊(てんそんににぎのみこと)が御降臨の時、道案内された神で、広く人事を良きに導き給う神であり、「家内安泰、交通導きの神」です。「倉稲魂大神」と「猿田彦大神」の主神二柱の鎌達様信仰のご利益由来には、「幸運・勝負運を招き、奇蹟を生む神様のご霊験あり」と敬われています。
また、「鎌達稲荷神社」は、平安時代の「陰陽師(おんみょうじ)・安倍晴明(あべのせいめい)」の子孫の「安倍家・土御門家」が祭祀を行っていました。「陰陽師」は、「陰陽五行説」や「呪術」「占術」「天文学」を駆使して、未来予知を行う技術を云います。
更に、「鎌達稲荷神社」には法力を自在に駆使した平安時代の僧「浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)」を祀った塚もあります。「浄蔵貴所」は傾いた「八坂の搭」を法力で元に戻したり、自らの父親の葬列が一条戻り橋に差し掛かった時に、法力で父親を一時的に蘇らせたりなど多くの逸話が残っています。
そして更に、「鎌達稲荷神社」は身に付けていると事件・事故に逢わず災難除け・奇蹟・奇蹟・勝運を招くと云われている「サムハラ御守」を授けていただける全国的にも数少ない神社の一つです。「サムハラ御守」は、日清・日露戦争の際に弾除けとして兵士がこれを身に付けて戦場に赴き、多くの命が救われたということで現在でもこれを身に付ける人達が多いと云われています。「サムハラ神社」は「岡山の津山」と「大阪の立売堀」の2ヶ所あり、大阪の「サムハラ神社」ではこの御守を授けてもらうのに行列が出来るほど有名な御守です。
ことほど左様に、「鎌達稲荷神社」は霊験あらたかな神社として京都の隠れたパワースポットとして有名な神社です。
「鎌達稲荷神社」は、創建の詳細は不詳ですが、奈良時代の和銅4年(711年)に御鎮座されたと伝えられており、稲荷神社の全国総本宮と云われている「伏見稲荷大社」の御鎮座も和銅4年とされていますのでほぼ同じ時期に創建されていることになります。ところが別の「御神鏡」の記録によると飛鳥時代の仏教伝来(538年)の頃の御鎮座という記述もあり、こちらの記述から読み解くと「伏見稲荷大社」よりも古くに創建されており、「元稲荷」とも伝えられています。
「鎌達稲荷神社」は、平安時代の「陰陽師・安倍晴明」の子孫「安倍家」、「土御門家」の鎮守社でした。また、「安倍家・土御門家」が祭祀を行い、代々の天皇の祈願が行われ、畿内七道の総産土神として、平安朝および人民にご利益を施し、天下泰平・五穀成就の祈願所であったと伝えられています。
室町時代の記録によりますと、「鎌達稲荷神社」は当初は七条村梅小路にあった「土御門邸」の東方附近にあって、平安時代の「陰陽師・安倍晴明」の子孫の安倍家・土御門家により祭祀が行われていたとのことです。
「鎌達稲荷神社」は、近代に至るまで社殿の再建や改築が施されてきましたが、明治44年(1911年)に旧国鉄の梅小路軌道拡張工事に伴って、現在の「西寺跡」の一角に移転しています。
本殿 |
摂社「白菊稲荷大神」
本殿の左には、摂社「白菊稲荷大神」が鎮座しています。
白菊稲荷大神 |
白菊稲荷大神 |
本殿右側奥の石塚
本殿の右側奥に石塚が並んでいます。
左から「宇賀神」、「浄蔵貴所」、「黒住大明神」、「坂杦大明神」です。
「宇賀神」は、中世以降、幸福・利益・知恵・財力の神として蛇神・龍神の化身とされることがありました。神名の「宇賀」は日本神話に登場する宇迦之御魂神に由来すると云われています。
「宇賀神」は、中世以降、幸福・利益・知恵・財力の神として蛇神・龍神の化身とされることがありました。神名の「宇賀」は日本神話に登場する宇迦之御魂神に由来すると云われています。
「黒住大明神」は、京都市の神楽岡にある「宗忠神社」を建立した「黒住宗忠」が設立した神道系の新宗教「黒住教」に由来した塚と思われます。
本殿右側奥の石塚 |
社務所
社務所には、人は常駐されていませんので、お札や御守、御朱印は、社務所入口左側に置いてある小箪笥の引き出しを開けて欲しいものを取り出し、入口扉に貼ってある「初穂料」の一覧に書いてある金額を本殿の賽銭箱に入れるというシステムになっています。お釣りはでませんのでお釣りは賽銭と考えてください。例えば八百円の御守を求めて千円札しかない場合は、お釣り分二百円は賽銭と考えてください。
社務所 |
初穂料 一覧 |
京都の隠れたパワースポットです。是非お詣りしてパワーをいただいてください。
アクセス
アクセス
JR京都線 西大路駅下車 徒歩10分
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