2019年10月4日金曜日

滋賀大津「義仲寺」は芭蕉の墓や若冲の天井絵など見処満載(その2)

前回の「滋賀大津「義仲寺」は芭蕉の墓や若冲の天井絵など見処満載(その1)」では、「義仲寺」の由緒や「木曽義仲」の生涯と「巴御前」、「松尾芭蕉」と「義仲寺」の関わりについてご紹介させていただきました。今回は「翁堂」「伊藤若冲」の天井絵や、「史料館」の展示品など、境内のその他の見処についてご紹介させていただきます。


木曽義仲の墓

「木曽義仲」の墓は、土壇のうえに宝篋印塔を据えた形となっています。「松尾芭蕉」はこの墓のことを」「木曽塚」と呼びました。「義仲」の忌日「義仲忌」は、毎年1月の第3土曜日に営まれます。

木曽塚
松尾芭蕉の墓

「芭蕉」は元禄7年10月12日午後4時頃、大坂の御堂筋の宿泊地で亡くなりました。享年51歳でした。遺言に従って遺骸を「義仲寺」に葬るため、その夜、「去来」「其角」「正秀」らの門人10人で遺骸を川舟に乗せて淀川を上り伏見経由でその後は陸路で13日午後「義仲寺」に入りました。14日に葬儀の後、深夜「木曽塚」の隣に埋葬されました。葬儀は門人ら焼香者80人、会葬者300余人に及んだと云います。「其角」の「芭蕉翁終焉記」に「木曽塚の右に葬る」とありますので、現在も当時のままということです。墓石の「芭蕉翁」の字は「丈艸」の筆と云われています。

「芭蕉」の命日は「時雨忌」といい、毎年11月の第土曜日に営まれます。

芭蕉の墓
「芭蕉」最後の句の句「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る(めぐる)の句碑は、「芭蕉」の墓のそばにありました。

「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」句碑
翁堂(おきなどう)

「翁堂」は、境内奥の池の端に建っています。寺の案内書には、「翁堂」は「蝶夢法師」が明和6年(1769年)に再興したとあり、最初の建築年の記載がありませんので、詳細は不明ですが「芭蕉」が亡くなって後しばらくして建てたものと思います。

奥に見える建物が「翁堂」
翁堂
「翁堂」の扁額
「翁堂」は、正面の祭壇に「芭蕉翁座像」、左右に「芭門(芭蕉の門人)」の「丈艸居士」と「向井去来」の木造と、左側面に「蝶夢法師陶像」が安置されています。正面壁上には「正風宗師」の額、左右の壁上には「三十六俳人」の画像が掲げられています。

正面「芭蕉翁座像」左「丈艸」右「去来」
「翁堂」の「三十六俳人」の画像は、明和7年(1770年)に完成しましたが、「翁堂」が安政3年(1856年)に類焼し、安政5年(1858年)に再建しました。現在の画像は明治21年(1888年)に「穂積永機」が類焼したものに似た画像を製作して奉納したものだそうです。




天井の絵は、「伊藤若冲」筆「四季花卉」の図ですが、原画は痛みが激しいため取り外して保管し、現場の天井絵は最新のデジタル技術で複写図を木板に高精細印刷したものということです。

「伊藤若冲」の天井絵(複製)
翁堂側面
史料館

「滋賀大津「義仲寺」は芭蕉の墓や若冲の天井絵など見処満載(その3)」でご紹介する「芭蕉」に関する史料を収蔵した「粟津文庫」の史料什宝を、適時取り替えて展示しています。大変貴重な史料が展示されており、興味深いものです。なお、「史料館」の前に植えられている大きな葉の草は「芭蕉(ばしょう)」(英名:ジャパニーズ・バナナ)です。

史料館


芭蕉の杖
「翁堂」の「伊藤若冲」天井絵のデジタル印刷木板

次回「滋賀大津「義仲寺」は芭蕉の墓や若冲の天井絵など見処満載(その3)」では、「芭蕉」の門人「蝶夢法師」が創設した「芭蕉」に関する史料什宝を保管した「粟津文庫」や、「巴御前」の供養塔「巴塚」、境内の「句碑」などご紹介させていただきます。


拝観料  300円
拝観時間 9時~17時(11月~2月は16時30分まで)
休日   毎週月曜日(祝日・振替休日、4月・5月・9月・10月・10月は開門)

アクセス
JR琵琶湖線 膳所駅下車 徒歩10分



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