迎称寺 |
「時宗」は、鎌倉時代末期に「一遍上人(いっぺんしょうにん)」(1239年~1289年)が開いた浄土宗の一宗派です。総本山は、神奈川県藤沢市の「清浄光寺(しょうじょうこうじ)」通称「遊行寺(ゆぎょうじ)」です。
「一遍上人」は「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)」と呼ばれ、鐘や太鼓を打ち鳴らし踊りながら念仏を唱えて全国を布教して廻りました。(布教や修行のために各地を巡り歩くことを遊行と云います)
文化庁の平成28年度版の宗教年鑑によりますと、「時宗」の寺院は全国に407ヶ寺、信者数は全国に58.900人となっています。
一遍上人 資料写真(Wikipedia) |
「時宗」のホームページの「時宗のおしえ」によると、「大悲本願を仰ぎ 念仏に生き 念仏を喜びとする」とあります。
迎称寺(こうしょうじ)由緒
寺 号 紫雲山(しうんざん)引接院(いんじょういん)迎称寺(こうしょうじ)
宗 旨 時宗
御本尊 阿弥陀如来像
創 建 不詳(もとは天台宗の寺院)で鎌倉時代後期に時宗に改宗
開 基 不詳
所在地 京都市左京区浄土寺真如町22
「迎称寺」は、古びた土塀と、土塀沿いに咲く萩の花で知られており「洛東9番 萩の霊場」となっています。
創建や変遷は諸説ありますが、かつては天台宗の寺院で、当初は一条堀川にあり「一条道場」と呼ばれていました。後に京極一条(現在の京都市上京区扇町)に移りました。
鎌倉時代後期に時宗の遊行6代の「他阿一鎮(たあいっちん)」が開いたとも云われています。
江戸時代元禄5年(1692年)の寺町の大火により焼失しましたが、元禄6年(1693年)に「真如堂」が現在地に戻った際に「迎称寺」も当地に移転したと云われています。
土塀沿いの萩 |
「洛東九番 萩の霊場」の標石 |
極楽寺(ごくらくじ)由緒
極楽寺山門 |
寺 号 徳地山(とくちざん)極楽寺(ごくらくじ)
宗 旨 時宗 聞名寺(もんみょうじ)に属しています
御本尊 勝利毘沙門天像
創 建 正暦元年(990年)
開 基 恵心僧都源信が天台宗の寺院として創建するもその後衰微
中 興 建治元年(1275年)
中 興 一条寺町にあったものを建治元年に一遍上人が時宗に改宗
所在地 京都市左京区浄土寺真如町15
「極楽寺」は、平安中期の正暦元年(990年)「恵心僧都源信(えしんそうづげんしん)」が天台宗の寺院として創建しましたが、その後衰微しました。
「極楽寺」は、平安中期の正暦元年(990年)「恵心僧都源信(えしんそうづげんしん)」が天台宗の寺院として創建しましたが、その後衰微しました。
鎌倉時代後期の建治元年(1275年)、一遍上人が中興し、「時宗」に改宗しました。
室町時代の3代将軍足利義満や、安土・桃山時代の豊臣秀吉にも帰依されていましたが、天正年間には、秀吉の京都の都市計画により寺町今出川に移転しました。
江戸時代元禄5年(1692年)の寺町の大火により焼失しましたが、元禄6年(1693年)に「真如堂」が現在地に戻った際に「極楽寺」も当地に移転したと云われています。
本堂 |
中央「勝利毘沙門天」右脇侍「恵比須」左脇侍「大黒天」 |
境内の水かけ観音菩薩立像 |
本堂には、お参りのための「念仏」の作法がイラスト付きで解説されています。
東北院(とうほくいん)由緒
東北院山門 |
宗 旨 時宗
御本尊 弁財天(かつて京二十九所弁財天廻り第三番)
創 建 平安中期 長元3年(1030年)天台宗
開 基 上東門彰子の発願により法成寺内に建立された三昧堂が前身
中 興 永禄2年(1559年)
中 興 一遍上人の遺弟・弥阿弥陀仏が復興し天台宗から時宗に改宗
所在地 京都市左京区浄土寺真如町83
「東北院」は、平安時代中期の長元3年(1030年)に「藤原道長」が営んだ「法成寺」の東北の地に、道長の娘「上東門彰子」によって建立された「三昧堂」が前身の天台宗の寺院でした。法成寺の東北に位置していたため「東北院」と呼ばれました。
「法成寺」は、浄土信仰に傾倒した道長によって、平安時代の治安2年(1022年)に現在の京都市上京区荒神口通寺町東入北側荒神町付近に建立された大寺院で、奈良の東大寺を模していたということです。
康平元年(1058年)、法成寺が焼失した時、東北院も類焼しましたが翌年に再興し、後冷泉天皇も行幸したということです。
康平7年(1064年)、内裏が炎上した際には仮御所になりました。鎌倉時代には東北院領は34ヶ所にのぼったと云われましたが、室町時代になると荒廃し、応仁の乱や戦国時代の兵火で焼失しました。
戦国時代の永禄2年(1559年)、一遍上人の遺弟・「弥阿弥陀仏」が復興し天台宗から時宗に改宗しましたが、元亀元年(1570年)、兵火によって焼失しました。
安土桃山時代には正親町天皇、後陽成天皇、豊臣秀吉らによって再興されましたが、江戸時代元禄5年(1692年)の寺町の大火により焼失しましたが、元禄6年(1693年)に「真如堂」が現在地に戻った際に「東北院」も当地に移転したと云われています。
本堂 |
弁財天堂 |
軒端の梅
平安時代の歌人「和泉式部」が法成寺の東北院の小堂に住んでいたときに梅の木を手植えしました。これを「軒端梅」と呼び、このことが世阿弥作の謡曲「東北」に詠われましたが、「東北院」が当地に移転した後に、謡曲「東北」に因んで本堂前に梅の木を植えました。これが現在の「軒端梅」です。
軒端の梅(山門前の京都謡曲史蹟保存会説明板引用)
当寺は、王朝時代に現在の今出川から荒神口に至る西側付近にあった関白藤原道長の法成寺の東北の地に建てられていたが、一条天皇中宮・上東門院藤原彰子の住まいであった、その院内の小堂に、明子に仕える和泉式部が住んでいた。それが軒端梅である。
現在の東北院は元禄年間に、この地に再興されたものといわれ、本堂前の軒端の梅は謡曲「東北」に因んで植えられたものである。根の周囲二米、樹高七米、地上部1.7米で三支幹に分れ、心材は著しく腐朽しているが一本だけは元気、白色単弁の花を咲かせ、見事な沢山の実を結ぶ。
謡曲「東北」の概要
ある僧侶が行脚の途中に「東北院」を訪れました。このとき梅の花が美しく咲いていたので、その由来を聞くと、その昔「和泉式部」が自ら植え、寵愛した軒端の梅であると聞いて感激しました。
僧侶が木陰で法華経を唱えていると、朧月夜の闇の合間から「和泉式部」の霊が現われて昔の東北院での生活の様子を語り、舞を舞って消えました。
僧侶が目覚めると、梅の香が漂っていました。
軒端の梅 |
「迎称寺」「極楽寺」「東北院」は3ヶ寺が並んで吉田山の中腹の神楽岡にひっそりと佇んでいます。栄枯盛衰を感じさせる佇まいを訪ねるのも寺院巡りの楽しみの一つです。
アクセス(3ヶ寺共通)
JR京都駅前から京都市バス100系統(急行・錦林車庫行き)乗車
岡崎道バス停下車 徒歩8分
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