2019年10月24日木曜日

滋賀大津の「聖衆来迎寺」の表門は明智光秀の坂本城の門を移築しました

滋賀県大津市比叡辻の「聖衆来迎寺」には、織田信長の重臣の「森可成」の墓があります。「森可成」は「本能寺の変」で信長とともに「明智光秀」に討たれた「森蘭丸」の父親です。「聖衆来迎寺」は、多くの文化遺産を蔵していることから「近江の正倉院」と云われ、また堂宇の建物も往時の特徴を残した貴重な文化財となっています。


聖衆来迎寺(しょうじゅらいごうじ)由緒 


寺 号 紫雲山(しうんざん)聖衆来迎寺(しょうじゅらいごうじ) 

宗 旨 天台宗

御本尊 阿弥陀如来、釈迦如来、薬師如来 の三仏

創 建 延暦9年(790年)

開 基 伝教大師最澄

所在地 滋賀県大津市比叡辻2-4-17

「聖衆来迎寺」は、天台宗の寺院ですが浄土信仰の色彩の濃い寺院と云われています。「聖衆来迎寺」は、宗派と地理的関係から比叡山関連の寺院として創建されたものと考えられていますが、室町時代以前の史料が乏しいために判然とはしていないそうです。寺伝によれば延暦9年(790年)、「伝教大師最澄」がこの地に「地蔵菩薩」を祀る寺を建てて、「地蔵教院」と称したのが「聖衆来迎寺」の起源となっています。

その後、長保3年(1001年)になって「恵心僧都源信」がこの寺に入り再興しました。源信がこの寺にいたとき、紫の雲に乗った阿弥陀如来と二十五菩薩の来迎を感得したことから、当寺に「阿弥陀如来」を祀り、また念仏修行の道場として寺号も「紫雲山聖衆来迎寺」と改めたとされています。

表門から本堂・開山堂・鐘楼
本堂
森可成と信長の比叡山焼き討ち

「森可成(もりよしなり)」は、戦国時代の大永3年(1523年)尾張国に生まれた武将で、初め美濃国の土岐氏に仕えましたが、後に「織田信長」の家臣となり、信長の「桶狭間の戦い」に参戦し、更に信長の美濃攻略でも武功を上げて信長に取り立てられ、信長上洛後には近江之国の重要拠点となる大津の宇佐山に本格的な石垣を積んだ「宇佐山城」を与えられました。そして元亀元年(1570年)の「姉川の戦い」にも参戦し武功を上げました。

しかし同年元亀元年(1570年)、信長上洛の報を聞いてこれを討たんとする「北近江の浅井長政」「越前の朝倉義景」の連合軍が湖西を南下して進軍してくるという報を聞いた可成は、近江の坂本に出向いて陣を築き進軍を阻止せんとしましたが、浅井・朝倉連合軍の勢力が強く、加えて比叡山延暦寺の僧兵も連合軍も加わったことから、これに抗しきれず信長の弟「織田信治」近江の国人「青地茂綱」とともに討ち死にしました。可成は享年48歳でした。

可成らは討ち死にしたものの、浅井・朝倉連合軍を数日間坂本の地で足止めにしたため、結局浅井・朝倉連合軍は「宇佐山城」を落とすことができませんでした。後に「宇佐山城の戦い」と呼ばれています。

「森可成」の三男「森蘭丸」は、少年時代は信長の小姓として、その後も信長の側近として仕え、「本能寺の変」では信長とともに「明智光秀」の配下の武将によって討ち取られました。

「聖衆来迎寺」は天台宗の寺院ですので、浅井・朝倉連合軍側に付くべき立場でしたが、時の住職「真雄」は敵方の大将「森可成」の遺骸を夜間密かに寺内に運び込み葬ったということです。

森可成の墓
当時「比叡山」は、京を狙う者にとっては山上に数多くの坊舎があって数万の兵を擁することができる戦略的に重要な拠点でした。比叡山と信長の対立の始まりは、信長が非叡山の寺領を横領したとして、天台座主が朝廷に対して信長から寺領を返還させるよう働きかけたことでした。朝廷は寺領を返還するよう信長に命じましたが、信長はこれに従わなかったため、比叡山を擁護する「浅井・朝倉連合体」との間で対立が深まり、「浅井・朝倉連合軍」は湖西を南下して進軍し戦となりましたが、「宇佐山城の戦い」でも決着しませんでした。

信長は寺領の返還を約する和睦を比叡山に持ちかけましたが、比叡山はこれを拒絶し、更に「浅井・朝倉連合軍」を加勢したこともあって、信長は比叡山の軍事的役割を完全に抹殺しようと考え、比叡山を徹底的に破壊することを決し、比叡山の東麓を3万の兵で取り巻きました。比叡山はこの動きを察知して黄金を差し出して攻撃中止を懇願しましたが、信長はこれを受け入れず、元亀2年(1571年)、信長は全軍に総攻撃を命じました。このとき攻撃の中心となって指揮したのが「明智光秀」です。この総攻撃は比叡山のみならず、湖西の坂本や堅田の天台宗の寺院や、比叡山を援護する者を皆殺しにする壮絶なものでした。世に云う「比叡山の焼き討ち」です。

「聖衆来迎寺」は、天台宗の寺院ですので当然「焼き討ち」の対象となるはずですが、「焼き討ち」されませんでした。それは、「聖衆来迎寺」が信長の家臣「森可成」を手厚く葬ってくれたという恩義に報いるため、信長が焼き討ちさせなかったということです。

このため、「聖衆来迎寺」には焼き討ちを免れた多くの宝物が残り、現在では「近江の正倉院」と呼ばれているということです。


表門は明智光秀の坂本城から移築

「明智光秀」は「比叡山の焼き討ち」の恩賞として信長から近江国の所領を与えられ、陸上・海上交通の要衝となる坂本の地に、石垣を巡らせた居城「坂本城」を築きました。後に光秀は天正10年(1582年)、本能寺でくつろいでいた信長を急襲してこれを討ち取りましたが(本能寺の変)、ほどなく駆け付けた「豊臣秀吉」他の軍勢に攻め込まれて討ち死にし、その天下は「三日天下」と云われました。その後「坂本城」は、「丹羽長秀」等が城主となりましたが、天正14年(1586年)秀吉の命で大津港に「大津城」を築造した際に全て解体され、大半の資材は「大津城」の築造資材として再利用されました。

「聖衆来迎寺」の「表門」は、この「坂本城」にあった門の一つを移築してきたものです。参道の両側の石垣の上に築かれた白漆喰の塀と合わせ、この表門は当時の坂本城の姿を想像させます。「表門」は重要文化財に指定されています。

表門
表門
参道の白漆喰塀と奥に表門
境内から表門と白漆喰塀

本堂

「本堂」は、寛文5年(1665年)に建立され、桁行5間(約9m)、梁間6間(約11m)の比較的規模の大きい仏堂で、内部は内・外陣が前後に区分され、内陣が正面側に突出部を持つ凸字形の平面形式で、天台宗仏堂の初期の本堂として貴重です。重要文化財に指定されています。

本堂正面
本堂側面
本堂正面出入口
本堂の外縁の三方は、木造で作るのと同様な形の花崗岩で作られています。これは琵琶湖の度重なる氾濫から建物を守るためのてだてだそうです。また外縁の柱、本堂正面の階段など氾濫した琵琶湖水面に接するところは花崗岩で造られています。

本堂の花崗岩の外縁

開山堂

「開山堂」には、「恵心僧都源信」とともに「天海(江戸初期の天台宗の僧・南光坊天海・慈眼大師)」が祀られており、寛永16年(1639年)に建立されました。重要文化財に指定されています。軒下の飾り彫りが見事です。
開山堂は、桁行3間(5.5m)、梁間3間(5.5m)で入母屋造り、桟瓦葺の建物です。

開山堂正面
開山堂側面

客殿

「客殿」は、江戸時代初期の代表的なもので、寛永16年(1639年)の建築と伝わっています。
「客殿」は、桁行約22m、梁間約13m、一重、南面入母屋造り、杮葺き、北面切妻造り段違、桟瓦葺の建物です。重要文化財に指定されています。
内部は6室と書院と茶室からなり、「狩野探幽」など筆による障壁画で飾られているそうです。

客殿
客殿側面
本堂から客殿への渡り廊下(中央の屋根部)

鐘楼

「鐘楼」は、元禄6年(1693年)に建立されています。

鐘楼

本坊と書院玄関と放生池

奥の建物が「本坊(寺務所)」、手前が「書院玄関」です。

本坊と書院玄関
放生池(ほうじょうち)

境内の石仏

境内西側の石垣の上や祠の中に「石仏」が安置されています。由緒は不詳でしたが、大切にお参りされているようでした。

祠の石仏
祠の石仏
石垣の石仏

近江の正倉院

「聖衆来迎寺」は、比叡山焼き討ちをまぬがれたこともあって、多くの宝物・文化財が残っています。

その全てを見ることはできませんが、本堂や客殿に安置されている仏様などは事前にご住職に電話でお願いしておけぱ見ることができるそうですが、毎年8月16日の「虫干し会」の際には、京都国立博物館などに分散して寄託されている「お宝」が帰ってくるそうですので、拝観させていただいてはいかがでしようか。
拝観料は普段は350円、虫干し会の時は500円(予約不要)

国宝
・絹本著色六道絵15幅

重要文化財
・建物(本堂・客殿・開山堂・表門)
・木造釈迦如来坐像
・木造十一面観音立像
・木造地蔵菩薩立像    他多数


歴史を感じることができる見どころたっぷりの寺院でした。今回は電話せずにお参りしましたので、本堂内など見させていただくことができませんでしたが、次回は本堂内の宝物など拝観させていただきたいと思います。

アクセス
JR湖西線 比叡山坂本駅から徒歩15分
駐車場は普通車20台ほど駐車可です。


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