2019年10月2日水曜日

滋賀大津「義仲寺」は芭蕉の墓や若冲の天井絵など見処満載(その1)

「義仲寺」は滋賀県大津市の膳所にあります。江戸時代の俳人「松尾芭蕉」は近江と琵琶湖と、そして「木曽義仲」をこよなく愛し、近江に来たときには「義仲」が眠る「義仲寺」を拠点にして活動していたと云います。


義仲寺(ぎちゅうじ)由緒 


寺 号 朝日山(あさひやま)義仲寺(ぎちゅうじ) 

別 名 巴寺、無名庵、木曽塚、木曽寺

宗 旨 天台宗

御本尊 聖観世音菩薩

創 建 時期不詳

再 興 天文22年(1553年)

再 興 佐々木六角義賢

所在地 滋賀県大津市馬場1-5-12

「義仲寺」の受付は素晴らしいものでした。門をくぐって受付に拝観料を支払うと、拝観兼と案内書と手渡され、「初めてですか?」と聞かれました。初めてと答えますと境内の説明を丁寧にした下さいました。そして案内書裏面に記載されている「芭蕉」と「義仲」にまつわる俳句の句碑の場所についても、番号と照らしながら探してみてくださいとのことです。寺院の拝観でこんなに丁寧な案内は初めてでした。皆さんも拝観される際には、受付の丁寧な案内を楽しみにしてください。

今回「義仲寺」の由緒は、受付でいただいた「義仲寺案内」を参照させていただきます。

「義仲寺」は、滋賀県大津市のJR膳所駅の北方に位置して建っています。この辺りは、その昔「粟津ケ原」と云い、琵琶湖に面しており、景勝の地でした。

平安時代末期の治承4年(1180年)、源義賢の次男「源義仲(後に木曽義仲)」は、「以仁王(もちひとおう)」の令旨で信濃に向けて平氏討伐の挙兵をし、寿永2年5月(1183年)北陸路で平氏の大軍を打ち破り、その年の7月には源氏の白旗とともに京の都に入りました。「平家物語」ではこのとき「義仲」は「朝日の将軍」という称号を得たということです。しかし「義仲」に政治の実権を握れる才覚はなく、また皇位継承問題に介入したことから次第に天皇家との溝は深まっていき、また鎌倉の「源頼朝」も弟を「大将軍」にたてて京に攻め入ろうとしていました。

翌寿永3年(1184年)1月6日、鎌倉の「源頼朝」の命を受けて京の都に上ってきた「源範頼」「源義経」の軍勢が美濃の国に入ったという報を聞いた「義仲」は恐れおののきましたが、1月15日には、朝廷に自らを「征東大将軍」に任命させました。

寿永3年(1184年)1月20日、「源範頼」「源義経」の軍勢は京に迫り、「義仲」はここ「粟津ケ原」の地で戦ったのですが(粟津の戦い)、甲斐なく討ち死にし、この地に葬られることとなりました。享年31歳でした。

「木曽義仲」の墓
「粟津の戦い」で「義仲」が没してしばらくの後、粟津の里人は美しい尼僧が「義仲」の墓所の近くに草庵を建て、日々「義仲」の供養をしている姿を見かけるようになりました。里人が聞いてみると「われは名もなき女姓(にょしょう)」と答えるのみでしたが、この尼僧こそ「義仲」の側室「巴御前(ともえごぜん)」だったのです。尼僧の没後、この庵は「無名庵(むみょうあん)」と呼ばれ、または「巴寺(ともえでら)」とも呼ばれ、後には「木曽塚」「木曽寺」「義仲寺」と呼ばれていたことが鎌倉時代後期の文書に記されているとのことです。

「巴御前」の供養塚「巴塚」
「義仲寺」は室町時代後期から戦国時代にかけて荒廃していきましたが、戦国時代の天文22年(1553年)、近江国守「佐々木六角」は、石山寺参詣の途中に「義仲寺」の荒れ果てようを見て「源家大将軍の御墳墓荒るるにまかすべからず」として、寺を再建して寺領を進めました。そのころ「義仲寺」は「石山寺」に属していましたが、後に江戸時代になって「圓城寺」に属しました。

山門と柳
山門入って直ぐの受付
貞享年間(1684年から1688年)に寺院の大修理の記録があり、俳人「松尾芭蕉」が度々「義仲寺」を訪れ宿舎としたのは、この頃からでした。「芭蕉」は近江国と琵琶湖をいたく気に入り、関西を訪れた際には「義仲寺」を訪れ、近江の俳句の門人「近江芭門」と交流を深めたのでした。

「芭蕉」は元禄7年(1694年)10月12日、大坂の旅舎で亡くなりましたが、かねての遺言「骸(から)は木曽塚に送るべし」に従い、門人達の手によって遺骸を「義仲寺」に運び、境内に墓を建てました。

「松尾芭蕉」の墓
その後「義仲寺」は、火災や洪水に逢い、そのたびに改修が行われましたが、第二次世界大戦後の混乱で、寺内全建造物の荒廃は激しく壊滅に瀕しました。そこでこれを嘆いた寺側は、昭和40年(1965年)園城寺より寺院一切を買い取り宗教法人法による単立寺院として、堂宇の全面改修を行いました。なお、これに要した一切の資金は篤志家の一個人による寄進により成したということです。

「義仲寺」は昭和42年(1967年)、境内全域が「国指定史跡」に指定されました。

朝日堂 

「朝日堂」は「義仲寺」の本堂で、本尊は「木彫聖観世音菩薩」です。また「義仲」「義隆」父子の木像が厨子に納められています。その他「義仲」「今井兼平」「松尾芭蕉」「上艸諸位」ほか合わせて31柱の位牌が安置されています。現在の「朝日堂」は昭和54年(1979年)に改築されたものです。
本堂「朝日堂」
中央が「木彫聖観世音菩薩」右が厨子、左が位牌
芭蕉と無名庵 

「芭蕉」が「義仲寺」を初めて訪れたのは貞享2年(1685年)3月中旬、次いで貞享5年(1688年)5月中旬には滞在しました。そして元禄2年(1689年)、「奥の細道」の旅の後12月に京都・大津から膳所で越年し、一旦伊賀上野の帰り、3月中旬に再び訪れ、9月末まで滞在しました。

元禄4年(1691年)春に「無名庵」が新築落成し、「芭蕉」は同年4月18日から5月5日まで京都嵯峨の「落柿舎」に滞在し、「嵯峨日記」を著しました。同年6月25日から9月28日まで「無名庵」に滞在しました。

伊勢の俳人「又玄(ゆうげん)」の句「木曽殿と背中合わせの寒さかな」は、同年9月13日ころ、「又玄」が「無名庵」に滞在中の「芭蕉」を訪ね泊まった時の作です。

「芭蕉最後の旅」は、元禄7年(1694年)5月11日に江戸を出発し伊賀上野へ帰郷し、閏5月18日に膳所に入り、5月22日に京都の「落柿舎」を訪れ滞在しました。
6月15日には京都から「無名庵」に帰り、7月5日京都の「去来」宅に移りました。
7月中旬から9月8日まで伊賀上野に帰郷して、9月8日伊賀上野を立って9日夕刻に大坂に着きました。

大坂行の目的は、門人の「之道」と「珍硯」の二人の仲たがいを取り持つためでしたが、この仲裁はうまくいかず、この時の心労が健康に差し障ったとも云われています。体調を崩した「芭蕉」は「之道」の家に移りましたが、9月10日夜に発熱と頭痛を訴え、9月20日には回復して俳席にも現れましたが、9月29日夜に下痢が酷くなって、容態は悪化の一途を辿りました。10月5日に御堂筋の花屋仁左衛門の貸座敷に移り、門人達の看病を受け、10月8日に「病中吟」と称して

「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」

を詠みました。この句が最後の句となり、10月10日には遺書を書き、10月12日午後4時頃息を引き取りました。

10月13日、「芭蕉」の遺骸は「義仲寺」に運ばれ、翌日には遺言に従って、「木曽義仲」の墓の隣に葬られました。300余名が焼香に訪れたとのことです。

無名庵
なお、「無名庵」は句会をはじめ文化活動の集まりで一般の人も利用できるそうです。


次回「滋賀大津「義仲寺」は芭蕉の墓や若冲の天井絵など見処満載(その2)」では、「芭蕉」を祀った「翁堂」や「史料館」などご紹介させていただきます。


拝観料  300円
拝観時間 9時~17時(11月~2月は16時30分まで)
休日   毎週月曜日(祝日・振替休日、4月・5月・9月・10月・10月は開門)

アクセス
JR琵琶湖線 膳所駅下車 徒歩10分



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