今回は、全国の神々を祀る「斎場所大元宮」、料理の神様「山蔭神社」、お菓子の神様「菓祖神社」などの末社についてご紹介していきます。
吉田神社境内 |
御祭神
天神地祇八百萬神(あまつかみくにつかみやおよろづのかみ)
天神地祇八百萬神(あまつかみくにつかみやおよろづのかみ)
東神明社 天照大神
西神明社 豊宇氣比売神
東西諸神社 延喜式内神3132座
ご利益
始まりの神「虚無大元尊神(そらなきおおもとみことかみ)」を中心に祀り、その周りに全国の八百万(やおよろづ)の神々を祀っていますので、「全国の神社に詣でることと同じ様々なご利益を授けてもらえる」ということです。
「斎場所大元宮」は今は「吉田神社」の末社の一つですが、明治に入るまでは本宮と並び称され吉田神社の信仰の中心となっていました。
「吉田神社」は鎌倉時代以降は「卜部(うらべ)氏」(後の吉田家)が神職をするようになりました。室町時代末期の文明年間(1469年~1487年)には「吉田兼倶(よしだかねとも)」が「吉田神道」を創始し、京都の左京室町の自邸に「虚無大元尊神」を祀る社「大元宮」を建て祭祀を行い、更に「吉田神道」を広めるために伊勢神宮を含む全国の神社を吉田神社の統制下に置こうとし、その拠点として文明16年(1484年)、境内に末社「斎場所大元宮」を建立し、自邸にあった「大元宮」から「虚無大元尊神」を遷座しました。
「大元宮」には、「天神地祇八百萬神」の他、全国の神々を祀っていることから、「大元宮」を拝むことは、日本中の全ての神社を拝んだに等しいとして、神社自体の格式も「伊勢神宮」より上であるとしました。
天正18年(1590年)、天皇守護のために宮中の神祇官に祭られていた「八神殿(はっしんでん)」が社内後方に遷され、慶長14年(1909年)から明治4年(1871年)まで、神祇官代としてその儀式を執行してきました。
更に、寛永5年(1665年)、江戸幕府が発布した「諸社禰宜神主法度」により、吉田家は全国の神職の任免権などを与えられ、明治になるまで神道界に権勢を誇っていました。
本殿(重要文化財)は、慶長6年(1601年)の建築で、平面上八角形に六角形の後房を付けた珍しい形をしており、屋根は入母屋造りで茅葺、棟には千木をあげている特殊な構造です。
本殿の左右の周りには、全国の延喜式内神3132座を祀る社殿が囲んでいます。
毎年、正月3日間と節分の日を中心に前後3日間行われる「節分祭」、毎月1日に限って
「大元宮」の本殿や東西諸神社などが特別に参拝できますので、是非お詣りして全国の様々なご利益を授かってください。
山蔭神社(やまかげじんじゃ)
御祭神
藤原山蔭(ふじわらやまかげ)
相殿 恵比寿神
ご利益
「藤原山蔭」は奈良の春日大社の四神を当地に勧請して、平安京の鬼門の守護神として「吉田神社」を創建し、また日本で初めてあらゆる食物を調理調味づけたいわれており、「包丁の神・料理飲食の神」として、多くの料理店や業界の信仰を集めています。
昭和32年(1957年)の吉田神社1100年大祭の際に、全国の料理関係者が創建に協賛して、昭和34年(1959年)に創建された新しい神社です。
境内の玉垣の奉納柱には、テレビなどのメディアでも有名な京都の一流料亭の名前が見受けられます。
境内の玉垣の奉納柱には、奉納した有名料理店の名前が刻まれています。
右から「銀水」「菊乃井」「たん熊」「沖政」「天喜」が読み取れます。各々超一流でミシュランにも掲載されたことのあるお店もあります。
「山蔭神社」の境内の遠景に「右大文字」が見えます。
5月8日の例祭では、本殿の前で手を使わず包丁と菜箸だけで魚を捌く「生間流包丁式(いかまりゅうほうちょうしき)」が奉納され、業界の繁栄が祈願されます。
菓祖神社
御祭神
田道間守命(たぢまもりのみこと)
林浄因命(はやしじよういんのみこと)
ご利益
菓子の祖神
「田道間守命」は「日本書紀」「古事記」に現われる古代日本の人物で、時の「垂仁天皇」の命を受けて「非時香菓(ときじくのかくのみ)」すなわち「橘(たちばな)」を求めるために「常世の国(とこよのくに・海の彼方にある異世界で理想郷)」に派遣されました。見事「橘」を持ち帰ることは出来ましたが、持ち帰った時にはすでに垂仁天皇は崩御された後であり、「田道間守命」はこれを嘆き悲しみ自害したとされています。「田道間守命」は果物の祖とも云われています。
「林浄因命」は、中国浙江省の人で貞和5年(1349年)に日本に渡来して、我国最初の「饅頭」を作り広めたとされています。
二神は、菓子の祖神として、また広く文化の神として崇められていましたが、京都の菓子業界の総意により、「菓祖神社創建奉賛会」が結成されて、昭和32年(1957年)に兵庫県の「中島神社」、和歌山県の「橋本神社」、奈良県の「林神社」の菓子関係の祭神を鎮祭して「菓祖神社」が創建されました。
この神社も大変新しい神社で、吉田神社の境内に鎮座しており急な坂道を少し登った場所にあります。
西神明社 豊宇氣比売神
東西諸神社 延喜式内神3132座
ご利益
始まりの神「虚無大元尊神(そらなきおおもとみことかみ)」を中心に祀り、その周りに全国の八百万(やおよろづ)の神々を祀っていますので、「全国の神社に詣でることと同じ様々なご利益を授けてもらえる」ということです。
「斎場所大元宮」は今は「吉田神社」の末社の一つですが、明治に入るまでは本宮と並び称され吉田神社の信仰の中心となっていました。
斎場所大元宮 鳥居 |
拝殿 |
本殿 |
「大元宮」には、「天神地祇八百萬神」の他、全国の神々を祀っていることから、「大元宮」を拝むことは、日本中の全ての神社を拝んだに等しいとして、神社自体の格式も「伊勢神宮」より上であるとしました。
天正18年(1590年)、天皇守護のために宮中の神祇官に祭られていた「八神殿(はっしんでん)」が社内後方に遷され、慶長14年(1909年)から明治4年(1871年)まで、神祇官代としてその儀式を執行してきました。
更に、寛永5年(1665年)、江戸幕府が発布した「諸社禰宜神主法度」により、吉田家は全国の神職の任免権などを与えられ、明治になるまで神道界に権勢を誇っていました。
本殿(重要文化財)は、慶長6年(1601年)の建築で、平面上八角形に六角形の後房を付けた珍しい形をしており、屋根は入母屋造りで茅葺、棟には千木をあげている特殊な構造です。
本殿の左右の周りには、全国の延喜式内神3132座を祀る社殿が囲んでいます。
八百万の神々を祀る東諸神社 |
八百万の神々を祀る西諸神社 |
「大元宮」の本殿や東西諸神社などが特別に参拝できますので、是非お詣りして全国の様々なご利益を授かってください。
山蔭神社(やまかげじんじゃ)
御祭神
藤原山蔭(ふじわらやまかげ)
相殿 恵比寿神
ご利益
「藤原山蔭」は奈良の春日大社の四神を当地に勧請して、平安京の鬼門の守護神として「吉田神社」を創建し、また日本で初めてあらゆる食物を調理調味づけたいわれており、「包丁の神・料理飲食の神」として、多くの料理店や業界の信仰を集めています。
境内の玉垣の奉納柱には、テレビなどのメディアでも有名な京都の一流料亭の名前が見受けられます。
一之鳥居 |
本殿 |
本殿 |
右から「銀水」「菊乃井」「たん熊」「沖政」「天喜」が読み取れます。各々超一流でミシュランにも掲載されたことのあるお店もあります。
「山蔭神社」の境内の遠景に「右大文字」が見えます。
奥の山の中央下部に大の字 |
菓祖神社
御祭神
田道間守命(たぢまもりのみこと)
林浄因命(はやしじよういんのみこと)
ご利益
菓子の祖神
「田道間守命」は「日本書紀」「古事記」に現われる古代日本の人物で、時の「垂仁天皇」の命を受けて「非時香菓(ときじくのかくのみ)」すなわち「橘(たちばな)」を求めるために「常世の国(とこよのくに・海の彼方にある異世界で理想郷)」に派遣されました。見事「橘」を持ち帰ることは出来ましたが、持ち帰った時にはすでに垂仁天皇は崩御された後であり、「田道間守命」はこれを嘆き悲しみ自害したとされています。「田道間守命」は果物の祖とも云われています。
「林浄因命」は、中国浙江省の人で貞和5年(1349年)に日本に渡来して、我国最初の「饅頭」を作り広めたとされています。
二神は、菓子の祖神として、また広く文化の神として崇められていましたが、京都の菓子業界の総意により、「菓祖神社創建奉賛会」が結成されて、昭和32年(1957年)に兵庫県の「中島神社」、和歌山県の「橋本神社」、奈良県の「林神社」の菓子関係の祭神を鎮祭して「菓祖神社」が創建されました。
この神社も大変新しい神社で、吉田神社の境内に鎮座しており急な坂道を少し登った場所にあります。
菓祖神社への参道と一之鳥居 |
二之鳥居 |
拝殿 |
本殿 |
相殿社 |
左から「たちばなや」「聖護院八ツ橋総本店」「二條若狭屋」「美濃与」「田丸弥」「京都煎餅組合」が読み取れます。
菓子の甘い香りが漂ってくるような境内です。
次回は、「京都の「吉田神社」その3 稲荷塚が50社以上ある竹中稲荷神社など」で「竹中稲荷神社」「今宮神社」などの末社を紹介させていただきます。
アクセス
京阪電車京阪本線 出町柳駅下車 徒歩20分
京都市バス 「京大正門前」バス停より徒歩5分
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