2019年10月1日火曜日

京都の「矢取地蔵尊」は東寺の空海(弘法大師)の命を救いました

「矢取地蔵尊」は、京都市南区唐橋羅城門町の「羅城門跡」の南にあって、「平安京」の逸話を今に伝えるとともに、お参りする人に「無病息災」「交通安全」など様々なご利益
を授けています。


次の写真は、京都市の九条新千本東入ルの九条通りに面して北に向かって撮影しています。「羅城門跡」は前方に見えている公園内の石碑が建つ場所で、ここに平安京の南の玄関の「羅城門(羅生門)」が建っていました。「矢取地蔵尊」はこの写真の手前左にあるお堂の中に祀られています。

左手前「矢取地蔵尊」と中央奥「羅城門跡」
「矢取地蔵尊」お堂
「矢取地蔵尊」が「羅城門跡」の前に祀られているのには、理由があります。

「平安京」は、桓武天皇の御代に長岡京にあった都を遷都して山背国(現在の京都市)に造営されたものです。「羅城門」は平安京の中央大通りの朱雀大路の南の端に建てられた、都の表玄関にあたる大門です。また「西寺」は平安京の南の端に現存する「東寺」と羅城門を挟んで、東西で対に並んで建っていた仏教寺院でした。

「桓武天皇」は平安京造営にあたり、「東寺」「西寺」以外の仏教寺院り建立を認めませんでした。当時は仏教を国家守護の目的として、建立すると考えていたため当然の方針と云えるでしょう。

弘仁14年(823年)、嵯峨天皇は「東寺の管理を空海(弘法大師)」に、「西寺の管理を守敏(しゅびん)」に委ねました。
当時、「東寺の空海」と、「西寺の守敏」は常にライバル関係にあり競り合っていたそうです。

天長元年(824年)、淳和天皇に皇位継承して直ぐの年でしたが、国中に日照りと干ばつが続きました。これに心を痛めた淳和天皇は「神泉苑」で法会を開き、「東寺の空海」「西寺の守敏」「雨乞いの祈祷」を命じました。

先に祈祷を行った「守敏」は法力により7日の祈祷の後に雨を降らせましたが、その範囲は限られており、少雨で国中が潤うとまでなりませんでした。

次に「空海」も7日の祈祷を行いましたが、雨は降りませんでした。「空海」がその原因を突き詰めると「守敏」が呪力を使って、国中の龍神(水と雨の神)をことごとく瓶の中に封じ込めていたからでした。しかし「空海」が調べたところ「善女龍王」だけ「守敏」の呪力を逃れているのが分かりましたので、「善女龍王」を天竺の無熱池から呼び寄せて祈祷したところ、3日間にわたり国中に大雨を降らすことが出来ました。「空海」は大成功を納め、その名声は国中に広がりました。(なお、この「善女龍王」は今も「神泉苑」に祀られています。)

この一件以降、「守敏」は「空海」を恨み、「羅城門」の近くを通る「空海」を待ち伏せて、「空海」に向かって矢を放つという愚行に出ました。「守敏」が「空海」の背後から矢を放った瞬間、1人の「黒衣の僧」が現われ、僧は「空海」の身代わりとなって矢を右肩に受け、そのおかげで「空海」は難を逃れることができました。その「黒衣の僧」は実は地蔵尊の化身であったと云われ、以来「矢取地蔵尊」と称されたということです。

ということで、人々は「空海」の命を救った「矢取地蔵尊」を「羅城門跡」の南側近くに地蔵堂を建立したうえ安置して、長く敬愛してきました。「矢取地蔵尊」は石像で、今でも右肩に矢傷の跡が残っており、左手に宝珠、右手に錫杖、矢を持っています。かつては「矢負地蔵」とも呼ばれました。

中央に安置されているのが「矢取地蔵尊」

現在の地蔵堂は、明治18年(1885年)に唐橋村(八条村)の人々の寄進により建立されたものです。

「矢取地蔵尊」の扁額
お堂の右手脇に多くの石のお地蔵さんが安置されていますが、これは昭和の初期に、九条通り拡幅工事の際に出てきたお地蔵さんということです。それぞれのお地蔵さんは、この付近にその昔あった刑場で処刑された罪人の供養塔ということです。


地蔵堂の前には愛宕大権現の石灯籠が建っています。庶民の愛宕信仰の現われです。

「愛宕大権現」の灯籠


「矢取地蔵尊」は九条通りに面して建っています。

左の通りは「九条通り」

アクセス
近鉄電車京都線 東寺駅下車徒歩13分


0 件のコメント:

コメントを投稿