2019年10月5日土曜日

滋賀大津「義仲寺」は芭蕉の墓や若冲の天井絵など見処満載(その3)

前回の「滋賀大津「義仲寺」は芭蕉の墓や若冲の天井絵など見処満載(その2)」では、「義仲寺」境内の「木曽義仲の墓」「松尾芭蕉の墓」、「翁堂」「伊藤若冲」の天井絵や、「史料館」の展示品など、境内のその他の見処についてご紹介しました。
今回は、「巴御前」を供養する「巴塚」「巴地蔵堂」、芭蕉に関する史料を収蔵する「粟津文庫」、境内の「句碑」などを紹介します。

「義仲寺」山門内 井戸と芭蕉


巴 塚

「義仲」の側室「巴御前」の供養塚です。「巴御前」は「義仲」とともに討ち死に覚悟で「義仲最後の戦(粟津の戦)」の場となった近江の「粟津」の地に来ましたが、「義仲」からの「落ち延びよ」との強いての言葉で、最後の戦で敵将「恩田八郎」の首を討ち取って落ち延びたましたが、後に鎌倉勢に捕らえられました。その後頼朝の御家人「和田義盛」の妻となり、義盛亡き後は「尼僧」となって各地を廻り、当地(義仲寺)で暫く留まって亡き「義仲」の菩提を弔っていたということです。その後、どことなく立ち去り、信州の木曽で90歳の生涯を閉じました。

巴塚
巴地蔵堂

山門の右手の「巴地蔵堂」に、「石彫地蔵尊」が祀られています。「巴御前」を追福するもので、以前より遠くから近くから人々の信仰が厚かったということです。

巴地蔵堂
山門の右手が「巴地蔵堂」
堂内の「石彫地蔵尊」
粟津文庫

「粟津文庫」は寛政3年(1791年)、「蝶夢法師」が創設しました。「蝶夢法師」は享保17年(1732年)京都に生まれ、26歳のころ「蕉門俳諧」に目覚め、36歳の時に寺を出て京都の洛東岡崎の地に庵を建て「五升庵」と名付けました。以来終生「芭蕉」を敬慕し、偉業顕彰のため蕉門拝書のほとんどを収集上梓しました。

「蝶夢法師」は自らが11年かけた絵巻「芭蕉翁絵詞伝」原本3巻の他、拝書の蔵本60部などを自身が創設した「粟津文庫」に寄贈・収集しました。

また、「蝶夢法師」は寛政5年(1793年)4月10日から12日まで「芭蕉翁100回忌」を主催しました。全国の俳人約500人が参加する一大イベントで、近世文学史上に名だたるイベントでした。

「史料館」では、「粟津文庫」に収蔵している什宝を適宜交代して展示しています。

粟津文庫
曲翠墓

近江国滋賀郡(大津市)の膳所藩士「菅沼曲翠」は、「芭蕉」が最も信頼した門人の一人でした。大津市国分の「玄住庵」は「曲翠」が芭蕉に提供したもので、ここも「芭蕉」お気に入りの庵でした。「曲翠」は、享保2年(1717年)膳所藩の悪かろう曽我権太夫を槍で刺殺し、自らも切腹しました。このことから「芭蕉」は「玄住庵記」「勇士曲水」と期し、「ただ者にあらず」と言っていました。

この事情から「曲翠」の墓は無かったのですが、昭和48年(1973年)に「義仲寺」境内に「曲翠墓」を建立しました。


「蝶夢法師」の墓、戦中戦後の文芸評論家で「義仲寺」の再建に尽力した「保田興重郎」の墓、そして「曲翠墓」は、境内の一番奥に並んで建っています。


一番左の石の墓石が「曲翠募」、一つとんで中央が「蝶夢法師」の墓、右が「保田興重郎」の墓です。

山吹塚

「義仲」の側女「山吹御前」は、「巴御前」とともに信濃国から京まで「義仲」に付き添って来ましたが、「義仲」が粟津の地へ向かった際に「義仲」を追って京から逢坂山を越えて近江へはいったところ、現在のJR大津駅の地にあった秋岸寺で敵刃に倒れました。
この塚は、もとはJR大津駅前にありましたが、駅の拡張工事に伴い、「義仲寺」に移されました。

山吹塚
木曽八幡社

「義仲寺」の鎮守社として、古図に描かれているそうです。昭和51年(1976年)に社殿鳥居を合わせて新造されました。

木曽八幡社

境内の句碑

芭蕉桃青(桃青は芭蕉の別の俳号)の句
「行春(ゆくはる)を あふミ(おうみ)の人と おしみける」


芭蕉の句
「古池や 蛙飛(かわずとび)こむ 水の音」


芭蕉の句
「旅に病(やん)で 夢は枯野(かれの)を かけ廻(めぐ)る」


又玄の句
「木曽殿と 背中合わせの 寒さかな」



これらの句碑の他、境内には多くの門人達の句碑があります。お寺の受付でいただく「案内書」の境内配置図に句碑の場所も記されていますので、お参りの際に探し当てるのも楽しみの一つです。

拝観料  300円
拝観時間 9時~17時(11月~2月は16時30分まで)
休日   毎週月曜日(祝日・振替休日、4月・5月・9月・10月・10月は開門)

アクセス
JR琵琶湖線 膳所駅下車 徒歩10分



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