いったいここに寺院はどこまで築かれたのか、竣工できたのか、工事を途中で中断したのか、何故廃寺となったのか、これらの謎は現在も解明されていません。
「衣川廃寺」金堂基壇跡 |
大津市の北方の志賀・堅田・真野・小野・和爾の琵琶湖岸の地域は、地名からも読み取れるように、古代より大陸からの渡来人が移り住んで大陸の先駆的な技術や文化を発信していったと考えられます。
日本最古の古代仏教寺院は「飛鳥寺」とされており、推古天皇4年(596年)に造立されたとされていますが、湖西地域にも古代仏教寺院跡が多く発見されており、湖西の坂本地区にあったとれる「前期穴太廃寺」は、舒明天皇年間初期(630年頃)に造立されたと云われています。
その後も湖西地域には古代仏教寺院が造立され、大津市衣川の「衣川廃寺」は、幸徳大化年間中期(650年頃)に造立工事が始められたとされており、仏教寺院として初期の段階のものと推定されています。
古代仏教寺院は、空海や最澄が登場して以降の仏教寺院と異なり、国家鎮護を目的として大陸から伝来したもので、民衆の信仰の対象の場でなかったため、天皇が寺院を建立しました。
「衣川廃寺跡」は、琵琶湖の西岸の滋賀県大津市堅田の南方の志賀丘陵の戦端に飛鳥時代の舒明天皇の時代に営まれたもので、「極めて特異な伽藍配置」をもった寺院であったとされています。
「衣川寺院跡」は、昭和50年(1975年)に発掘調査されており、発掘調査地は「国指定史跡 衣川廃寺跡」として整備され保存されています。
「衣川廃寺」が建立された時代は、琵琶湖の汀線は今よりも山側にあったと想定されることから、寺院は琵琶湖の湖面に面して建っていたと推定できます。
また、「衣川廃寺跡」には、「金堂基壇」と「搭基壇」以外の堂宇の痕跡がなく、特異な伽藍配置となっていました。
「衣川廃寺」伽藍配置 |
金堂基壇と塔基壇
「金堂基壇」は、東西14m・南北18mの土を叩きしめた基壇です。「搭基壇」も同様に1辺10mの正方形の土を叩きしめた基壇が1.25mの高さまで築かれています左「金堂基壇跡」右「搭基壇跡」南から |
金堂基壇
発掘調査時の「金堂基壇跡」北東から |
現在の「金堂基壇跡」北東から
現地の掲示板には「金堂基壇」の築成について次のように記載しています。
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金堂の基壇は、聖地のための盛土の後、土を叩きしめながら土盛りする版築(はんちく)によって築かれました。版築工法にも1層の単位が比較的厚い下層のものと、薄く細かい上層のものの2種の工法がありました。
また、金堂基壇北辺の一部では、瓦と石を敷き詰めた遺構が見つかっています。基壇築成過程の一部、もしくは基壇裾に敷かれたものと考えられます、この遺構が基壇裾になるものとすると、金堂基壇の北東部分は2.3m以上の高さをもつものとなります。
金堂基壇の築成過程を表わす遺構が整備されて残されています。
築成過程を示す遺構 |
塔基壇
発掘調査時の「搭基壇」西側から |
現在の「搭基壇」西側から |
塔基壇は、平面形が正方形で、塔を建てるために築かれたと推定されています。基壇は、版築という少しずつ土を叩きしめながら盛り上げていく土木技術によって強固に築かれています。
基壇の周囲は、特別な外装を施すことのない簡素なものです。基壇上面からは、塔の中心柱の台石である「心礎」や周囲の礎石などは見つかっていないので、どのような塔が建っていたのかは分かっていません。
「心礎」が見つかっていないということは、塔として完成を見ることがなかったのではないでしょうか。
瓦窯跡と工房跡
遺跡の南側の斜面には、屋根瓦を焼いた「瓦窯跡」が見つかっています。また、金堂基壇の下からは寺院造営に関係する「工房跡」と考えられる竪穴式遺構が見つかっています。
「衣川廃寺跡」から出土した軒丸瓦の文様には、「単弁蓮華文」や「複弁蓮華文」、「忍冬文」などのいろいろな種類のものが発見されており、衣川廃寺の特徴となっています。
「塔基壇」の周辺からはミニチュアの塔(瓦塔)の破片が見つかっています。
発掘調査時の「瓦窯跡」 |
現在の「瓦窯跡」 |
手前「工房跡」工法は金堂基壇 |
出土した瓦 |
「衣川廃寺跡」遺跡には、発掘の様子などの展示施設も設けられています。
展示施設 |
所在地
滋賀県大津市衣川2丁目12-11
アクセス
滋賀県大津市衣川2丁目12-11
アクセス
JR湖西線 堅田駅下車 徒歩25分
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