「京都市立洛陽工業高等学校」は、明治19年(1886年)に創立された「京都染工講習所」から始まります。
京都は昔から「友禅染」や「西陣織」を中心に「染め」や「織り」などの「着物」に関する伝統産業が盛んな地でしたので、織物の「染色」という工程に即戦力となる若い人材を養成したいという業界の要請も強くあって創立されたものと考えられます。
「京都染工講習所」は、官立の職業学校として創立され、「京都市立洛陽工業高等高校」はこれを継承しましたので、全国の公立工業高校のなかでも創設が最も古く130年以上の歴史を有していました。
明治27年(1894年)、「京都市立染色学校(染色と織物)」が設立・継承され、後にはアメリカで開かれたセントルイス万博に色染部の製品・機織部の製品を出展するなどしました。
大正8年(1919年)に「京都市立工業学校」と改称し、翌年には「色染」「機織」「工業化学」「電気」「機械」の5科を本校で、京都市伏見区の文教場で「金工」「木工」「玩具」の3科を設置しました。その後大正13年(1924年)には「建築科」を新設しました。
大正14年(1925年)、「京都市立第一工業学校」と改称し、同時に文教場を廃止して「京都市立第二工業学校」として独立しました。「京都市立第二工業学校」は後に「京都市立伏見工業高等学校」となりましたが、ラグビーを題材としたスクールドラマ「スクールウォーズ」はこの学校が舞台となっています。
昭和10年(1935年)、校舎を京都市南区唐橋大宮尻町(閉校時の現位置)に新築移転しました。
昭和13年(1938年)、「京都市立第一工業学校第二本科」として「定時制課程」を創設しました。
昭和23年(1948年)、戦後まもなく「京都市立洛陽工業高等学校」と改称し、定時制課程を「京都市立九条工業高等学校」と改称しました。
昭和23年(1948年)、「京都市立洛陽高等学校」と改称し、「普通」「商業」「工業」の3課程を設置し、定時制は「京都市立洛陽高等学校定時制」と改称しました。
昭和24年(1949年)、建築科を「伏見高等学校」に移管、伏見高等学校の機械科を本校に移管しました。
昭和38年(1963年)、全日制・定時制ともに「京都市立洛陽工業高等学校」に改称しました。
在りし日の洛陽工業高等学校(右は校舎・左は体育館) |
平成28年(2016年)、「京都市立洛陽工業高等学校」は「京都市立伏見工業高等学校」の全日制課程とともに、京都市伏見区深草に新設された「京都市立京都工学院高等学校」に継承されました。
「京都市立洛陽工業高等学校」は平成29年度の在校生の卒業年度までは移転した校舎で存続し、また「京都市立伏見工業高等学校」は定時制課程のみ従来の校舎・校名で存続しています。
平成30年(2018年)3月末日、「京都市立洛陽工業高等学校」の建物として役割を終え完全閉校となり、解体工事も終わり、現在は埋蔵文化財発掘調査を実施しているところです。
この後、跡地には「京都市立塔南高等学校」が新築・移転してくることが決まっているそうです。
現在の旧洛陽工業高等学校の姿 |
解体された校舎の基礎部分 |
グラウンドがあった場所 |
旧校舎の塀(建物は跡形もありません) |
体育館付近(建物は跡形もありません) |
「京都市立洛陽工業高校」は130年の歴史の中で、多くの産業人を育成し世に送り出してきました。特に戦後の高度経済成長期には、産業界から即戦力となる人材の需要が高まり、最盛期には日本の多くの名だたるメーカーから求人の要求がありました。
私は、昭和50年(1975年)の卒業ですが、当時は第一次オイルショックの時代でしたが、求人数は相当あったと記憶しています。
私が在校していた頃は、学科は「色染」「工業化学」「電気」「電子」「機械」の5科あり、「色染」科を中心に女子も多く在学していました。
卒業生には、著名な人も多く、日本電産の会長「永守重信」、映画監督の「大島渚」、物理学者の「真木和美」などを輩出しており、産業界の中で主要な仕事をしている人は数限りなくいることでしょう。
私の卒業年次の卒業生の中にSF作家の「山本弘」がいますが、この人は在学中からSF小説を書いていました。当時の工業高校は、大学に行きたいけれども家庭の事情で行けないという理由で、手っ取り早く職業につける工業高校に入るという人も多かったように思います。
3年間通った母校が解体されている状況を見るのは、感慨深いものがありますが、完全に更地になるまでに見ることができたことはラッキーだったと思います。
アクセス
JR京都線 西大路駅下車 徒歩10分
0 件のコメント:
コメントを投稿