2019年8月21日水曜日

明治の中ごろ日本を揺るがす大事件が大津の街角で起きていました

「ロシアが日本に攻めて来る!」そんな噂も流れるほどの大事件が、今はひっそりとした大津の街角で起きていました。
国賓として来日していたロシア帝国皇太子ニコライに対し、大津の街角で警護していた警察官が突然サーベルで斬り付け負傷させたのです。下の写真は、事件現場付近の街角にある事件の碑です。「此付近露国皇太子遭難の地」と刻んであります。


時は明治24年(1891年)5月11日、日露戦争からさかのぼること10年前、「ロシア帝国皇太子ニコライ(日露戦争当時はロシア帝国皇帝ニコライ二世)」は、ロシア帝国海軍の艦隊7隻を率いてウラジオストックで開かれるシベリア鉄道の極東地区起工式典に向かう途中、日本を訪問しました。

当時ロシアは未だ小国の日本にとって超大国でしたので、日本は国を挙げて歓迎することになりました。ニコライ皇太子一行は長崎と鹿児島に立ち寄った後、神戸に上陸し京都に向かいました。日本政府は国を挙げて一行の接待に努め、接待役として皇族の「有栖川宮威仁親王(ありすがのみやたけひとしんのう)」を任命しました。
ニコライ皇太子一行は京都で季節外れの大文字焼きを見た後、琵琶湖遊覧をし、その後横浜、東京へ向かい歓迎を受ける予定でした。

5月11日昼過ぎ、一行は日帰りで京都から琵琶湖遊覧に向かい大津の唐崎神社の「唐崎の松」を眺めて、その後大津県庁で昼食をとりました。昼食後の京都への帰り道、ニコライ皇太子、随伴していたギリシャ王国のゲオルギオス王子、威仁親王の順で人力車に分乗した一行は当時の大津のメインストリートの街角に差し掛かりました。人力車の通り道の両脇は警備の警察官がびっしりと並び一行を警護していました。

「大津事件」の画像検索結果
長崎で人力車に乗るニコライ皇太子
一行を乗せた人力車が街角を通過した際、突然警護の警察官の一人がサーベルを抜いて、ニコライ皇太子に斬り付け傷を負わせました。斬り付けた警察官は守山警察署から派遣された「津田三蔵」でした。
この事件は当時「湖南事件」とよばれ、ある時期から「大津事件」と呼ばれるようになりました。

事件当時ニコライ皇太子一行が通った通り

事件当時ニコライ皇太子一行が通った通り
ニコライ皇太子は人力車から飛び降り路地に逃げ込み、また後を追ったゲオルギオス王子や人力車夫に助けられその場の難を逃れることはできました。その後犯人の「津田三蔵」は警護中の警察官に取り押さえられました。

「津田三蔵」の画像検索結果
津田三蔵
犯人「津田三蔵」は西南戦争の際に、政府軍として従軍し勲功をあげ勲章を受章していましたが、当時流れていた噂「自刃したはずの西郷隆盛が実は生きていてロシアに逃れ、今度はロシアとともに日本を攻めてくる」を信じて、西郷隆盛が帰ってくれば自身の勲章が取り消されると思い、ロシア皇太子を殺害しようとしたものです。警察の自供調書がないので動機は諸説あるそうですが、これが動機だとすると実に不愉快な話です。

事件現場付近の掲示
ニコライ皇太子は、ひとまず京都の常盤ホテル(現在のホテルオークラ)に帰り治療を受け、神戸に停泊していたロシア帝国艦隊まで戻りました。もちろん以後の日本訪問の日程は中止です。

接待役として随行していた威仁親王は自身で対応できる内容ではないと判断し、明治天皇に上奏して指示を待ちました。

明治天皇はすぐさま判断し、自ら見舞いと謝罪に向かうため、当時ようやく開通した鉄道「東海道本線」の汽車に乗って京都に向かいました。京都に着いて常盤ホテルにニコライ皇太子を見舞った明治天皇は、更に神戸に停泊していたロシア艦隊の艦艇に向かいロシアへ帰国するニコライ皇太子を見舞いました。

明治天皇がロシア艦隊の艦艇を訪ねた際には、天皇がロシアに拉致されてしまうのではという反対の声もありましたが、天皇はこれを押し切ってロシア艦艇で療養中のニコライ皇太子を見舞いました。

当時国内では、日本が大国ロシアの皇太子を負傷させたとして、「ロシアが報復に日本に攻めてくる」との国中大騒ぎでした。

ロシア帝国は、犯人「津田三蔵」の死刑を求めていましたが、明治天皇が迅速に直接謝罪したことや、その後の外交努力もあって、日本に対して賠償請求や武力で報復するということはありませんでした。

外交的には、解決を見ましたが、司法については難題が続きました。
外務大臣「青木周蔵」は、ニコライ皇太子来日前にロシア公使に対し、「皇太子に危害があった場合は大逆罪(天皇や皇后、皇太子に対し危害を加えようとした者は死刑に処す)を適用する。」と密約していました。まさかこんなことが起きるとは思っていなかったんでしょうが、司法の判断を待たずに独断で密約したものですから大変です。当然ロシア公使は犯人「津田三蔵」の死刑を求めてきました。政府内でも「津田三蔵」をどう裁くかが問題となり、事件を担当した裁判官に対し、大逆罪を適用して死刑にするよう働きかけました。政府高官の中には「津田三蔵を拉致して射殺せよ」という強硬論も出ていました。

ここで登場したのは「大審院院長(現在の最高裁長官)」の「児島惟謙」でした。「日本は法治国家として法律の範囲で裁くべきである。日本の法律に外国の皇太子に対する規定はなく、ロシア皇太子に対する殺人未遂は一般人と同等に裁くべし」として、大逆罪で裁くのではなく、一般人に対する殺人未遂として裁くべきと主張して、政府の意向に猛反対しました。この事件の裁判は大津地裁を出て、大審院に廻ってきており、大審院の判事の中でもいろいろ意見が分かれましたが、最終的に大逆罪は適用せず、一般人に対する謀殺未遂罪を適用して「津田三蔵」には「無期徒刑(無期懲役」の判決が下りました。

この大審院の判断は、三権分立を貫き通し司法の独立を守った判断として、当時海外からも評価されることとなり、日本が近代国家として認められる要因ともなりました。


今は少し寂しくなっている大津の街の片隅で、その昔こんな大事件が起きていました。
大津の街はまだまだ探訪しがいがありそうです。

アクセス
JR琵琶湖線 大津駅下車徒歩5分



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