2019年8月29日木曜日

京都の本禅寺の本堂は全体を白漆喰で化粧して姫路城を思わせます

京都の法華宗陣門流総本山「本禅寺(ほんぜんじ)」は、京都市上京区の京都御苑の東の寺町通り沿いにあります。
本禅寺の鐘楼の梵鐘は、豊臣秀頼が片桐且元に命じて鋳造させ、大阪の生国魂(いくたま)大明神に献納したもので、徳川家康は「大坂冬の陣・夏の陣」の両戦で「陣鐘」(じんがね)として使用しましたが、後に大久保彦左衛門によって本禅寺に納められたものです。

本禅寺鐘楼

 本禅寺(ほんぜんじ) 由緒 


寺 号 光了山 本禅寺

宗 旨 法華宗陣門流 総本山

御本尊 三宝尊(仏・法・僧)

創 建 応永13年(1406年)

創 起 法華宗陣門流の門祖日陣

 御利益 現世安穏、後生善処 

本堂

本禅寺は応永13年(1406年)、法華宗陣門流の門祖日陣(にちじん)によって四条堀川に創建されました。
日陣はもとは本圀寺(ほんこくじ 京都市山科区にある日蓮宗の大本山)に属していましたが、法兄の日伝との宗論の後、本圀寺を離脱し独立しました。

本禅寺は、天文5年(1536年)の法華一揆(天文法華の乱)の際は、他の法華宗寺院とともに焼失し、大阪のに避難しました。

その後、天文11年(1542年)に後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨(りんじ 天皇の意を受けて発給する命令)を下し、堺に避難した寺々も京都に戻りましたが、本禅寺はこれを2年ほどさかのぼる天文9年(1540年)に京都の西陣桜井町に伽藍を再建していました。(現在は上京区智恵光院通今出川上る桜井町)

本禅寺は天正19年(1591年)、豊臣秀吉の京都の区画整理により、現在の地に移転しました。

寺院の伽藍は宝永5年(1708年)の宝永の大火と、天明8年(1788年)の天明の大火で焼失しましたが、その都度再建されています。
現存の伽藍は嘉永5年(1852年)に再建されたものです

本禅寺山門

 本堂の白漆喰 


本堂には「遺魂道場」と書かれた扁額が掲げられています。建物は総ヒノキ造りだそうで、火災予防のため耐火性のある白漆喰を塗っています。
白い本堂は大変珍しく、姫路城を思わせます。

本堂

本堂の扁額

 釈迦堂と金銅釈迦如来立像(立像釈迦牟尼仏) 


釈迦堂には、日蓮の随身仏と言われる「金銅釈迦如来立像(立像釈迦牟尼仏)」が安置されており、このことから立像堂(りゅうぞうどう)とも云われています。

釈迦如来立像は年2回、万人講(4月上旬)と御会式(おえしき)(10月13日)の時に開帳されます。

釈迦堂

釈迦堂の扁額 立像釈迦


 大阪夏・冬の陣の陣鐘 鐘楼の梵鐘 


鐘楼の梵鐘は、慶長11年(1606年)に豊臣秀頼が片桐且元に命じて鋳造させ、摂津の国の生国魂(いくたま)大明神に献納したもので、豊臣秀頼・淀殿・加藤清正・加藤勝元の名が刻まれています。
徳川家康は、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、慶長20年(1615年)の大坂冬の陣の両戦で、この鐘を徴用して陣鐘(じんがね)としていました。
その後、この鐘は江戸幕府の旗本となった昔のテレビの時代劇で取り上げられた「大久保彦左衛門」が譲り受け、菩提寺であったこの寺に献納したと云われています。

鐘楼と家康に所縁のある梵鐘

 墓所に眠る人々 


本禅寺の墓所には、本禅寺を菩提寺とした大久保彦左衛門忠教とその一族や、同じく近江膳所藩主や伊勢亀山藩主を勤めた石川憲之とその一族の墓、江戸時代の画家・岸駒(がんく)、刀研師で俳人の桜井梅室の墓や供養塔があります。
※墓所につき、写真は控えました。

 本堂前の七福弁財天 



七福弁財天

 境内は月極駐車場 


境内は、空き地はほぼびっしりと一般の月極駐車場になっています。参拝者用の駐車スペースはありませんでした。寺院経営の難しさがよく分かる一面でした。

 境内の駐車場

境内の駐車場

アクセス
京都市バス・京都バス 京都府立医大病院前下車 徒歩3分
京阪電車京都線 出町柳駅下車 今出川通を西へ寺町通りを南へ徒歩10分



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