「瑞泉寺」は秀吉から謀反の疑いで切腹させられた二代目関白「豊臣秀次」と、秀次一族根絶のために三条河原で公開処刑された秀次の妻や子供、妾など39名、ならびに賜死した家臣10名の霊を弔うため建立されました。
山門の扁額 |
「瑞泉寺(ずいせんじ)」由来
寺 号 慈舟山 瑞泉寺
宗 旨 浄土宗西山禅林寺派(ぜんりんじは)
御本尊 阿弥陀如来
開 創 慶長16年(1611年)
創 建 立空桂叔
京都の繁華街木屋町三条を少し下がった左側のビルの間に、「瑞泉寺」の山門があります。境内は本堂の拝観はできませんが、開門時間内であれば拝観随意です。山門をくぐって境内に入ると繁華街の喧騒はなくなり静かな空間となります。
山門 |
山門をくぐると静かな境内が 本堂 本堂の扁額 |
豊臣秀次とその一族の悲劇
文禄4年(1595年)8月2日、二代関白豊臣秀次公の一族の公開処刑が三条河原で行われました。秀次公の妻や子供、妾など39名が次々と斬首され、河原に掘られた大穴に投げ入れられました。妾といっても三十歳もいれば十一歳や十二歳の年端のいかない子供もいます。秀吉は秀次一族を絶やす目的と、見せしめの目的で残虐な殺戮を命じたのでしょう。「蔵を裂き、魂を痛ましめずということなし」と処刑を目撃した町衆の嘆く様子が、瑞泉寺の縁起に残されているそうです。
秀次一族の処刑の後、遺骸を投げ入れた大穴は埋められ塚が築かれました。
秀次はこの事件の2週間ほど前の文禄4年(1595年)7月15日、秀吉の命で高野山青巌寺で切腹しています。秀次の御首のみ京都の三条河原に運ばれ、秀次一族が公開処刑され埋められた塚の頂上に秀次の首を納めた「石びつ」が据えられ、三条大橋を通る人々と家臣へへの見せしめとしました。
豊臣秀次 |
さて、秀吉は秀次と秀次一族に対し、何故このような残虐な殺戮を命じたのでしょう。
そもそも秀次は秀吉の姉の瑞竜院日秀の長男でした。
秀吉には鶴松という嫡男が出来たので世継ぎは鶴松と考えていましたが、鶴松はよわい2歳にして死去しました。この時秀吉は55歳でした。秀吉は世継ぎが絶えることを恐れ、秀次を養子として家督と関白職を秀次に譲りました。
ところが、その後秀吉と淀君の間に嫡子・秀頼が誕生したものですから、秀吉は当然世継ぎは嫡子・秀頼とすべく考えました。秀吉はすすめていた朝鮮出兵に秀次が異を唱えたなどの理由で秀次が謀反を企てているとして、秀吉は秀次の関白職を解き、強制的に出家させ高野山青巌寺へ蟄居を命じた後、切腹を命じました。
秀吉は、秀次一族の係累まで絶つべしとして、秀次公の妻や子供、妾など39名の処刑を命じたのです。
この事件の16年後の慶長16年(1611年)、京の豪商「角倉了以」が高瀬川運河の工事を鴨川近辺で行っていましたが、偶然発見された石に「秀次悪逆塚」と刻まれていました。秀次とその一族に同情を寄せていた了以は、浄土宗西山派の僧「立空桂叔」とともに秀次の菩提を弔う堂宇を建立することとしました。堂宇は山号を「慈舟山」とし、寺名は秀次の法名「瑞泉寺殿高巌一峰道意」からとって「瑞泉寺」としました。
かつて秀次一族が埋められていた塚の場所が「瑞泉寺」の本堂の建っている場所です。
秀次と一族の墓域
「瑞泉寺」境内には、秀次の首を納めた「石びつ」を奉じる石塔と、そのまわりには秀次の一族39名と秀次に殉じて自刃した家臣10名の合計49基の五輪石塔があります。
秀次一族の墓域
中央が秀次の首を納めたとされる石びつ
左右に一族の五輪石塔が囲んでいます
処刑当時の年齢、処刑の順番など記載されています |
地蔵堂
地蔵堂の中央に安置された「地蔵菩薩立像(通称引導地蔵)」は、秀次一族の処刑の際、四条・大雲院の僧「貞安上人」が刑場の一隅にその木像を運び込み、次々と打たれる子女達に引導を授け続けたと伝わる尊像です。
地蔵堂 |
極楽浄土へ死者を導く「引導地蔵尊」として、京洛の人々に今もなお崇敬されています。
地蔵堂には、一族の処刑に際し一人一人に引導を授けたという地蔵菩薩立像(通称引導地蔵)と、一族と家臣たちの御姿を写す49体の極彩色の京人形が安置されています。
引導地蔵尊と背後には一族と家臣の京人形 |
休憩所の資料
山門をくぐってすぐのところに、休憩所が設けられ、豊臣秀次に関する資料が整えられています。
アクセス
京阪電車京都線 三条駅下車 徒歩5分
地下鉄東西線 三条京阪駅下車 徒歩8分
阪急電車京都線 河原町駅下車 徒歩10分
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