「本福寺」は琵琶湖畔の滋賀県大津市堅田にあって、比叡山からの法難を逃れた「蓮如上人」が身を寄せ、同地に本願寺を置いて再興の拠点とした地です。
「本福寺」の11世住職は、松尾芭蕉の門人「千那」として多くの句を残し、芭蕉も「本福寺」を度々訪れています。「本福寺(ほんぷくじ)」由緒
寺 号 夕陽山(せきようさん) 本福寺
宗 旨 浄土真宗本願寺派
御本尊 阿弥陀如来
創建年 寛正2年(1461年)
創 建 僧善道
創 建 僧善道
鎌倉時代後期の寛正2年(1461年)、滋賀県野洲市にある御上神社の神職であった善道が本願寺覚如の門人となって創建したと云われています。2世住職覚念は浄土宗に宗旨を変えましたが、三世住職法住が浄土真宗に戻しました。最初は真宗佛光寺派の本山佛光寺に属していましたが、後に本願寺直末寺となりました。
本堂
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蓮如堂の蓮如上人石塔 |
「本福寺」は「蓮如上人」を匿ったということで、延暦寺と対立し、堅田の地元民と延暦寺との対立も絡んで、応仁2年(1468年)「堅田大責(かたたおおぜめ)」と呼ばれる延暦寺の攻撃で堅田の町と「本福寺」が焼き払われました。この焼き討ちの後「本福寺」は、4世住職明顕と「蓮如上人」ならびにその息子実如の元で再興し、本願寺と浄土真宗の発展に尽くすとともに、堅田を中心とした近江国の浄土真宗門徒及び一向一揆の中核となりました。
その後も、宗門内の対立は続きますが、江戸時代前期の11世住職「明式」(松尾芭蕉の門人「千那」)が寺を再興しています。
この宗教紛争が起こった「堅田」は平安時代末期から江戸時代にかけて琵琶湖最大の自治都市が築かれた地域で、「堅田千軒」や「諸浦の親郷」と呼ばれ、水先案内・水運・漁業・造船などで繁栄し、琵琶湖の中心的存在でした。
松尾芭蕉と本福寺「千那」
「本福寺」の第11世住職「明式」は、楚歌(そか)に通じ、その後俳諧を始め京都談林派の菅野谷高政に師事して「宮山子」と号しました。貞享2年(1685年)、松尾芭蕉が京都・大津を訪ねた際、宿に芭蕉を訪ね更に本福寺に芭蕉を招き、その教えを受けるとともに、「千那(せんな)」の俳号を与えられ、以降「千那」に改めました。芭蕉はその後も度々堅田と本福寺と訪ね、いくつかの句を詠んでいます。
その後「千那」の俳諧活動は芭蕉を軸に広がり、「近江芭門」を形成しました。
「千那」は正徳2年(1712年)本福寺住職を引退し、その翌年死去しました。
(千那の代表句)
「いつ迄か 雪にまぶれて 鳴千鳥」
「時雨きや 並びかねたる 魦船」
「夏萩の 此萩いやか ほととぎす」
芭蕉は、琵琶湖を抱く近江の風光をこよなく愛し、その後も度々近江の地を訪ね、その風情を数多く詠んでいます。その際には大津の「義仲寺」や「幻住庵」に滞在しています。芭蕉は義仲寺のある浜辺から門人たちの繰り出す船で堅田に渡り「本福寺」や「浮御堂」を訪ねています。
芭蕉は元禄7年(1694年)大坂の御堂筋で息を引き取りましたが、遺骸は大津の義仲寺に運ばれ、遺言に従って木曽義仲の墓の隣に葬られました。
(芭蕉が堅田で詠んだ句)
本福寺 「病雁の 夜寒に落ちて 旅寝かな」
浮御堂 「鎖明けて 月さし入れよ 浮御堂」
祥瑞時 「朝茶飲む 僧静かなり 菊の花」
芭蕉の句碑「病雁の夜寒に落ちて旅寝かな」 |
句碑 |
千那の句碑「時雨きや 並びかねたる 魦船」 |
鐘楼 |
本堂前の松 |
宝物庫 |
本堂裏のボタン園(花の季節には絶景) |
手水舎 |
JR湖西線 堅田駅下車徒歩20分
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