2019年7月16日火曜日

京都市南区久世の「光福寺」は京の都の裏鬼門の守り神

「光福寺」は京都市南区久世上久世町の久世橋の西側にあって、平安京の古より京の都の西南の地にあたる裏鬼門を鎮護してきました。
「光福寺」は、鳥居があり、山門があり、拝殿があるという「神仏混交」の名残りを残すお寺です。



 「光福寺(こうふくじ)」由緒 

寺 号 医王山 蔵王寺 幸福寺

宗 旨 西山浄土宗 (総本山は粟生光明寺)

御本尊 蔵王権現

洛西三十三所観音霊場第十九番札所

ご利益 極楽往生、現生安穏

「光福寺」は、平安時代の天暦9年(955年)、第62代村上天皇の勅願寺として創建されました。

当時、京の都の北東には比叡山が表鬼門の鎮護の役目を果たしていましたので、時の村上天皇は、「都の裏鬼門」にあたる南西方向の鎮護の役目を務めさせるべく、光福寺の創建を命じました。

「光福寺」の開基は「浄蔵貴所」です。「浄蔵貴所」は平安中期の天台宗の僧侶で、数々の修験道の地で修行を積み、加持祈祷に優れ、法力の高さで当時の世間を賑わしていました。「浄蔵貴所」は、村上天皇の勅願を受け、霊告によって「蔵王権現」をこの地に遷したと云われています。

創建当時「光福寺」は豪壮な堂宇が立ち並び、境内の「蔵王の森」も「糺の森」「藤の森」などとともに京の七つの森の一つに数えられるほど広大なものでしたが、現在では
八堂宇を構えるのみで、「蔵王の森」も現在の姿で往時の名残りをとどめるのみとなっています。

拝殿と蔵王堂(拝殿の奥)
その後、室町時代には「真言宗の東寺」(教王護国寺)の支配下にありましたが、安土桃山時代から江戸時代には「天台宗の三鈷寺」の末寺となっていました。

八堂宇とは、「山門」、「蔵王堂」、「拝殿」、「地蔵堂」、「薬師堂」、「不動堂」、「福宝弁財天女」、「子安勝手社・子守大明神」があります。現在の本堂は境内の西側に江戸時代の正保年間(1644年から1648年)に建立されたものです。

「光福寺」は近代になり、「四宗兼学」により「西山浄土宗」に改められました。

「四宗兼学(ししゅうけんがく)」
日本の天台宗は、「円(天台)」「禅(達磨系)」「戒(円頓菩薩)」「密(密教)」の四宗を合一兼学していました。このことから天台宗ではさまざまな宗派・教義が研究され、修行されていきましたが、その結果天台宗に出家し比叡山に学び、そこから離れて新しい宗派が生まれていきました。
浄土宗の宗祖「法然上人」も比叡山に学び、高名な学僧らと談義したのち、浄土宗を開きましたが、浄土宗は更に浄土宗西山派に派生発展して、その一つの派として粟生光明寺を総本山とする「西山浄土宗」が誕生しました。

 「光福寺」八堂宇 

仁王像を左右に配置した山門

山門
山門の「医王山」の扁額

仁王像

仁王像
蔵王堂と拝殿

蔵王堂には、中央に本尊の「蔵王権現」、左右に「浄蔵貴所像」、「役の行者像」、「観音菩薩像」、「地蔵菩薩像」などの木像が配置されています。

蔵王堂(拝殿の奥)と拝殿(手前)

蔵王堂の「蔵王尊」の扁額

蔵王権現尊(非開帳)

観世音菩薩

地蔵堂

地蔵堂

薬師堂

薬師堂

薬師如来
不動堂

不動堂
建替え前の不動堂に使われていた鬼瓦なと

福宝弁財天社
福宝弁財天社
子安勝手社・子守大明神

子安勝手社・子守大明神
 その他のみどころ 

手水舎の跡

手水舎の跡
蔵王の森

「京の七つの森」の一つと称された「蔵王の森」の名残りがあります。

蔵王の森
樹齢200年の楠

樹齢200年の楠の大樹が1対あります。








本堂と山門

現在の西山浄土宗の本堂と山門は、蔵王堂の境内の西側にあります。
山門と本堂(奥の建物)
参道のそめい吉野

参道の両側にはそめい吉野の桜の樹が植えられています。お参りしたのは3月22日で開花には少し早かったのですが、桜の季節には桜の花のトンネルが出来るでしょう。
 

アクセス
JR京都線 桂川駅下車 徒歩10分


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