2019年5月21日火曜日

京都の御所八幡宮は足利尊氏ゆかりの神社です

「御所八幡宮」は京都市中京区高倉通りの東に御池通りに面して鎮座しています。もともとは公卿「中院通成」の邸宅「高倉殿」でしたが、当時の「後宇多天皇」の二条内裏が火災で焼失したため、しばらくの間、天皇が仮の内裏として居所したところです。当時「高倉殿」の邸内にあった「石清水八幡宮」の若宮社が「御所八幡宮」の始まりです。その後、時を経て「御所八幡宮」は、足利氏の鎮守の社として、朝家の尊崇をいただいていました。

御池通から御所八幡宮土塀

御所八幡宮(ごしょはちまんぐう)ご由緒

名 称
御所八幡宮(ごしょはちまんぐう)

御祭神
第15代応神天皇(おうじんてんのう・八幡神・仲哀天皇の子)
神功皇后(じんぐうこうごう・第14代仲哀天皇の妃)
比売神 (ひめのかみ・神道の女神)

創 建
弘安元年(1278年)

例 祭
9月15日

御神紋
菊御門章に向鳩

境内社
・高倉社 
 御祭神:高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)

・天満宮
 御祭神:菅原道真公(すがわらみちざねこう)

・初音稲荷
 御祭神:宇賀御魂神(うかのみたまのかみ)

・三 社
 金毘羅社  御祭神:琴比良神(ことひらのかみ)
 大宮比売社 御祭神:大宮姫命(おおみやひめのみこと)
 猿田彦社  御祭神:猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)

別 称
「御池の八幡さん」 「むし八幡」
(「等持院八幡宮」「高倉八幡宮」「三条坊門八幡宮」とも呼ばれました)

【ご利益】
安産、子供の疳の虫(むし八幡) 



御所八幡宮 一之鳥居

鎌倉時代の弘安元年(1278年)「二条内裏(ごしょ)」が焼失するという大火災がありました。この火災で第91代「後宇多天皇(ごうたてんのう)」は、しばらくの間三条坊門にあった公卿「中院通成(なかのいんみちなり)」の邸宅「高倉殿(たかくらどの)」を、仮の内裏として居所することとなりました。「通成」はすぐさま「四足門(よつあしもん・正式な門)」を建造し、これによって「高倉殿」が内裏であることが内外に示されました。

この地はその昔、第77代「後白河天皇」の皇子で、平家の横暴をこらしめようと源氏の一族に密かに勅令を下して挙兵を要望した「高倉宮以仁王(たかくらみやもちひとおう)」の邸が三条高倉にあったので、「高倉殿」とも呼ばれていました。

源氏の一門である「中院氏」は、源氏の氏神である「岩清水八幡宮(現在の京都府八幡市)」の若宮を「高倉殿」の邸内祠として勧請していましたが、「後宇多天皇」が内裏として居所し、この「祠」にも参拝したことから、この後は「御所八幡宮」として子々孫々奉斎することとし、これが「御所八幡宮」の始まりとされています。

拝殿

その後の「建武の大乱(御醍醐天皇の建武政権と足利氏の戦い)」以後、南北朝に入るに及んで、このあたりの光景は一変し、この故地に「足利尊氏(あしかがたかうじ)」の弟で副将軍の地位にあった「足利直義(あしかがなおよし)」が邸を構えて、再び「高倉殿」と呼ばれることとなりました。

正平7年(1352年)、「直義」が鎌倉で「尊氏」に毒殺されてから後、清和源氏の流れを汲む「尊氏」は、「直義」の邸を取り払い、その地に往古より鎮祀していた「石清水八幡宮」の「若宮(御所八幡宮)」を境内の広さ四町四方(4.8km四方)、本殿八棟造りの善美を施した殿舎として再興造営し、足利氏鎮守の社として奉斎しました。「尊氏」の称号にちなんで、「等持院八幡宮」または「高倉八幡宮」「三条坊門八幡宮」ともいわれました。

本殿(工事中)

その後は、皇室のご尊崇と貴神、武門の崇敬は誠に深甚で、特に足利将軍家累代の社参など朝家の敬迎篤く神賑を極めていました。

ところが、応仁の大乱後、戦国時代を経て足利幕府の滅亡(1573年)するに至り、衰退はその極に達し、江戸時代には御池通り(元の三条坊門)の南、堺町(高倉と萬里小路の中間)の西、高倉の間と境内は縮小しました。

明治に入って、「御所八幡宮」として村社の列に入り、昭和の時代には戦時中の強制疎開により狭隘な現在地に鎮座し、往昔の盛観はこれを偲ぶ由もありませんが、世の移り変わりにその尊崇する姿も変わりましたが、概ねその昔より鎮座の位置を変えることなく現存し、今では初音学区とその付近の守護神として、「御池の八幡さん」として崇敬され今日に至っています。

拝殿と三社・初音稲荷

令和天皇が皇太子の時の御成婚記念碑が建立されています。

皇太子(次期天皇)御成婚記念碑

境内社

天満宮(牛の像があります)

三社と初音稲荷

【ミニ知識】

(四足門)
日本の門の建築様式の一つで、門柱の前後に控柱を2本ずつ、左右あわせて4本立てたものです。重要文化財として残る日本の門の建築様式の中では最も多いものです。正門に配されることの多い格式高い門です。

(高倉宮以仁王)
後白河天皇の第三皇子で、「以仁王の令旨」を出して源氏に平氏打倒の挙兵を促しました。

(建武の大乱)
鎌倉幕府滅亡以降、建武の新政に至る混乱期の状況を言います。

(応仁の大乱)
室町時代の応仁元年(1467年)から11年間続いた内乱。細川勝元と山名宋全との対立に将軍足利義政の跡継問題などがからんで、戦乱は全国に拡大しました。この戦いが戦国時代の幕開けとなりました。

(御池通りの戦時中の強制疎開)
近代までの御池通りは、三条坊門小路という道幅の狭い小路でしたが、第二次世界大戦の末期昭和20年に御池通り鴨川西岸から堀川通りまで民家に対して、空襲からの類焼防止策のために疎開が実施されました。御所八幡宮もその例に漏れず、疎開させられました。



手水舎

アクセス
京都地下鉄 烏丸御池駅下車 東へ向かって徒歩10分


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