高瀬川の川沿いには、幕末から明治にかけて日本の発展に重要な役割を果たした人々の軌跡があり、川面には桜の花が映えています。
高瀬川の桜
慶長15年(1610年)、京都の豪商「角倉了以・素庵父子」は、方広寺大仏殿の再建工事のための資材運搬を請け負い、鴨川を利用した水運による資材運搬を実現すべく鴨川の開削に着手しました。
しかし、鴨川は過去に幾度も氾濫をおこしてきた川です。いつなんどき、使用不可能になるかもしれません。
そこで安定した水路の確保を目的として、鴨川を分流して別のルートを開拓すべく開削されたのが高瀬川です。 その後慶長19年(1614年)に、「角倉了以・素庵父子」によって、高瀬川の開削が竣工し、総延長9.7Kmの京都~伏見間の恒久的な運河が開通しました。これが高瀬川です。
高瀬川の水深は数10cm程度と浅く、物流には底が平らで喫水の低い高瀬舟と呼ばれる小舟が用いられました。 二条から四条にかけては、荷物の上げ下ろしや船の方向転換をするための「船入(ふないり)」が高瀬川から西側に直角に突き出すように作られました。(現在は、史跡指定されている「一之船入(いちのふないり)」を除き、すべて埋め立てられています。
高瀬川沿いには、起点から終点まで桜の木が植えられており、シーズンには一斉に桜の花が咲きますので、この時期の高瀬川の散策は最高です。
今回は、高瀬川を二条通りから御池通りを経て三条通りまでたどっていくことにします。
旧角倉了以別邸
現在、大手寿司チェーン「がんこ」が「二条苑」として営業している屋敷は、豪商「角倉了以」の別邸だったところで、この屋敷の庭を鴨川と合流して、高瀬川へと地下水路で結んでいるのです。
旧角倉了以別邸
「がんこ二条苑」玄関
高瀬川のスタート地点の桜と高瀬舟
島津製作所創業の地
島津製作所は京都市に本社を置く、ノーベル賞受賞者「田中耕一」を輩出した、精密機器、計測器、医療機器、航空機器を製造する企業です。
島津製作所の創業者「島津源蔵」は、明治8年(1875年)にこの地木屋町二条下るで教育用理化学機器を扱う「島津製作所」を創業しました。
現在、この地には「島津創業記念資料館」が建っていて、一般も入場できます。
島津創業記念資料館
一之船入
「一之船入」は「船入」の二条起点に設けられた船入で、高瀬舟の荷の積み下ろしや転換に使用されました。河原町通りの少し手前まで入り組んでいます。
一之船入 右手の柵から河原町通り少し手前まで運河が入ります
高瀬川の桜
高瀬川の桜
高瀬川の桜
高瀬川の桜
高瀬川の桜
佐久間象山・大村益次郎遭難の碑
元治元年(1864年)、木屋町通りを馬に乗って通りかかった佐久間象山は、刺客に襲われて斬られ絶命しました。
象山は、信濃(長野県)松代藩士で、洋楽・砲術を学び、開国論を唱え、勝海舟・坂本龍馬・吉田松陰ら多くの俊才を教育しました。
その5年後の明治2年(1869年)、木屋町通りの東側にあった宿舎で大村益次郎が刺客に襲われて斬られ、その傷がもとで大阪の病院で亡くなりました。
益次郎は、周防の国(山口県)長州藩士で、医学とともに西洋兵学を学び、幕末の長州藩を率い、戊辰戦争の指揮に活躍しました。
佐久間象山・大村益次郎遭難の碑
御池通りの噴水と京都ホテルオークラ
高瀬川は御池通りを地下水路で通過します。
御池通りには噴水があります。
建設当時建物の高さで話題になった「京都ホテルオークラ」も見えます。
御池通りの噴水
京都ホテルオークラ
しだれ柳と桜
しだれ柳と桜
桂小五郎寓居跡・武市端山(武市半平太)寓居跡
両名とも幕末に明治維新の実現に向けて活躍した志士達です。桂小五郎は長州藩出身、武市半平太は土佐藩出身でいずれも尊王攘夷派の志士達です。
両名は、この時代に坂本龍馬、西郷隆盛らとともに京の町を駆け巡り、日本の夜明けに向けて奔走していました。
桂小五郎寓居跡
武市端山(武市半平太)寓居跡
恵比須橋
三条通り手前の桜
木屋町三条から三条大橋方向
木屋町三条から高瀬川南側方向
高瀬川沿いには、この先四条通りから南方面にも、歴史のあるスポットが数多くありますので、この時期の桜を楽しみながら散策してはいかがでしょう。
アクセス
京阪電鉄京都線 祇園四条駅下車 徒歩3分
阪急電車京都線 四条河原町駅下車 徒歩3分
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