一夜で「当麻曼荼羅」を織り上げたとされる「中将姫」の遺徳を偲んで創建されたと伝えられています。
天性寺 |
天性寺 御由緒
寺号 曼荼羅山 當麻院 天性寺
宗旨 浄土宗(浄土宗総本山知恩院の末寺)
御本尊 阿弥陀如来
ご利益
極楽往生、現世安穏、技芸上達・福徳財運(弁財天)
天性寺は、天正5年(1577年)に僧眼誉道三が、一夜にして大和国當麻寺で「当麻曼荼羅」を織り上げたといわれる、悲劇のヒロイン「中将姫」の遺徳を偲び創建しました。
また、眼誉道三は當麻寺の「当麻曼荼羅」を絵解きして、衆生に極楽往生を勧奨するために都に入り、一宇を建てたのが起こりとも言われています。
当初創建されたのは、堀川上立売西入ルの曼荼羅町でしたが、天正15年(1587年)、豊臣秀吉の京都区画整理によって、寺町通りの現在地に移転しました。
その後、江戸時代の天明8年(1788年)、「天明の大火」によって寺院は焼失しましたが、文化年間(1804年~1818年)に再建されました。
現在の本堂は明治13年(1880年)に再建され、昭和31年(1956年)に現在の門が
再建されました。
本堂
本堂の扁額「曼荼羅山」
鐘楼
庫裏
藤原鎌足の曾孫、右大臣藤原豊成とその妻の紫の前の間には長い間子どもが出来ず、奈良の桜井の長谷寺の観音に祈願し、中将姫を授かりました。しかし、母親は、その娘が5歳の時に世を去り、7歳の時に豊成は、藤原百能、又は、橘諸房の娘である照夜の前を後妻としました。
中将姫は、美貌と才能に恵まれ、9歳の時には孝謙天皇に召し出され、百官の前で琴を演奏し、賞賛を受けました。しかし、継母である照夜の前に憎まれるようになり、盗みの疑いをかけられての折檻などの虐待を受けるようになりました。今でいう「児童虐待」です。
13歳の時に、三位中将の位を持つ内侍となりました。
14歳の時、父豊成が諸国巡視の旅に出かけると、照夜の前は、今度は家臣に中将姫の殺害を命じました。継母の妬みはすごいですね。
これに対して中将姫は命乞いをせず、亡き実母「紫の前」への供養を怠ることなく、極楽浄土へ召されることをのみ祈り、読経を続ける中将姫を、家臣は殺める事が出来ずに、雲雀山の青蓮寺へと隠しました。翌年、父豊成が見つけて連れ戻しました。その間に中将姫は千巻の写経を成していました。
天平宝字7年(763年)、16歳の時、淳仁天皇より、後宮へ入るように望まれましたが、これを辞しました。その後、二上山の山麓にある当麻寺へ入り尼となり、法如という戒名を授かりました。
26歳で長谷観音のお告げにより、『当麻曼荼羅』を織り上げたと云われています。仏行に励んで、徳によって仏の助力を得て、一夜で蓮糸で『当麻曼荼羅』(『観無量寿経』の曼荼羅)を織ったのです。
宝亀6年(775年)春、29歳で入滅し、阿弥陀如来を始めとする二十五菩薩が来迎され、生きたまま西方極楽浄土へ向かったとされています。
中将姫の伝承は謡曲や浄瑠璃、文楽の題材になっています。
中将姫(Wikipedia)
当麻曼荼羅
曼荼羅とは、密教の経典にもとづき、主尊を中心に諸仏諸尊の集会する楼閣を模式的に示した図像で、仏の悟った境地、また、その境地に備わる功徳(くどく)を絵にしたものです。
当麻曼荼羅とは、奈良の當麻寺に伝わる中将姫伝説のある蓮糸曼荼羅と言われる根本曼荼羅の図像に基づいて作られた浄土曼荼羅の総称です。 曼荼羅という用語を用いていますが、密教の胎蔵界・金剛界の両界曼荼羅とは無関係です。浄土曼荼羅という呼称は密教の図像名を借りた俗称で、正式には浄土変相図です。
当麻曼荼羅
大和天河弁財天社
天性寺の境内にある弁財天は、奈良の天河大弁財天を勧請したものといい、もとは火災防けで信仰されたそうですが、現在では子宝祈願も行われているそうです。火防けは、やはり水との関係なのでしょう。
弁財天社
弁財天社
もともと火災除けで信仰されていたということで、社殿の背後には桶が積み上げられています
社殿の背後の桶
弁財天脇の干上がった池
天性寺の梅の花
お参りした3月12日には、境内の梅が花を咲かせていました。
境内の梅の花
「鼻が下に 向いとるぞ 有難いぞ なあ」
天性寺の山門に掲げられていた句です。
「天狗になるなよ」といういましめでしょうか。
浄土宗 天性寺
アクセス
京阪電車 京都線 神宮三条駅下車 徒歩8分
京都市営地下鉄東西線 京都市役所前駅下車 徒歩3分
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